【考察】ベンヤミンと『映像のポエジア』

 

最近は人文思想系の本もちょこちょこ読んでいます。

偶然、直近で読んだ二冊に関連性があったため、まとめておきたい。

 

概説

ベンヤミンの基本思想を理解するための10編の論考を掲載した文庫。事物に対する深い思索と精緻に選び抜かれた文章を堪能できる本である。おそらく初期⇒後期の順に並んでいるが、序盤は論文間の意味内容の連関というより、ベンヤミンの考察の幅広さを主眼に置いている。中でも印象に残ったのは『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』と『技術的複製可能性の時代の芸術作品〔第三稿〕』。

 

ロシアの映画監督タルコフスキーの芸術論・映画論をまとめたエッセイ集のようなもの(中古で一万超えたんよ......)。中期から後期にわたる彼の映画に対する考え方の変遷がよく分かる。熱が入りすぎて最終的に文明論的批評じみた文章も散見されるが、彼の難解な映画にもちゃんと意図があるということを知ることができた。「よく分からない映画を作る人」という認識を変えることができたので、良い本。

以下の記述は、主に先に挙げたベンヤミンの二つの論考を基礎とし、『映像のポエジア』から補足的もしくは対置的に引用を行う形で進める。

 

無意志的記憶と意志的記憶

過去は漠然としたものである。過ぎ去ったものについて思う時、浮かぶのは互いに独立しているように見えるイメージの断片にすぎない。これは遥か昔ではなくとも、つい昨日のことに関してもいえる。思い浮かべるものには「空白」が存在する。その空白こそ過ぎ去ったものであり、ベンヤミンの論考では”無意志的記憶”として登場する。それは、通常の「記憶をたどる」という行為において、注意力(もしくは集中力)を用いて回想する連続的な記憶(”意志的記憶”)と対置される。

……意志的な回想についていえることは、過ぎ去ったものについてそれが与える情報のうちには、過ぎ去ったものが何も留められていないということだ。

これに関して『映像のポエジア』において、分かりやすい記述がある。ある一日について注意力を用いて回想するとこのようになるだろう。

それは骨格も図式もなく漂う何か無定形なもの、雲のようなものであろう。しかしこの一日の中心的な出来事だけは、その記憶のなかで、議事録的な具体性と明確な意味とはっきりしたフォルムのなかに凝縮されている。事件は、その日全体を背景として、霧のなかの木のように際立っている。…私が霧とか雲とか言っているものは一様なものではない…対象や状況は、明確な輪郭を欠いた、偶然的で不完全なものとして記憶される。

ここでいう”対象や状況”こそ無意志的記憶であり、タルコフスキーはそれを「人生の感覚」と呼んでいる。人生の感覚、つまり人生(個人の歴史)を感じさせる出来事の知覚・印象である(タルコフスキーはその映画活動の大半において、その人生の感覚を観客に与えることに注力したといってもよい)。無意志的記憶を意識的記憶と区別するのは、この人生の感覚を内包しているか否かだといえる。そして、それは感覚(味・香り・光景・音など)と深く結びついている。感覚が無意志的記憶を呼び起こす事例として、『須賀敦子全集 第5巻(河出書房新社)』よりウンベルト・サバの詩「よろい戸が閉まっていて」を引用したい。

遠い感覚が

こころを突き刺す、

不意の記憶が。

......じぶんの家にそのひとといる、

それがすべてを変えていて、

すべてがぼくを惑わせる。

......よろい戸は、夏休みの

予感を持ってくる、

もうすぐそこの夏の。

海にいる至福の時間を

夢みたり、息せいて走った

そのあとの冷たい飲物やら、

山、緑濃い峡谷。どれもこの目で

見たわけではなく、ひとり

本を読みふけった小学生。

これが、きみにとって

なんだと思うだろうか、

少女よ、顔をうつむけていいよ。

......けがれないむすめの乳房が、至福の

ことたちの記憶を呼び覚ましたのさ。

遠い、なつかしいことたちを。

この詩において、「ぼく」はよろい戸という日常の光景と少女の乳房という非日常の光景を起点として、過ぎ去った夏の気配(無意志的記憶)の想起に立ち会っている。「息せいて走ったあとの冷たい飲み物」や「本を読みふけった」記憶などは、夏の気配に付随する具体的な事象(意志的記憶)である。この時、「ぼく」はまさに”人生の感覚”を受け止めているはずだ。

僕もこのような無意志的記憶の想起に立ち会うことがある。例えば、僕はよく高校時代を思い出す。校舎と体育館の間の渡り廊下や、テニスコートのネットが風にはためく様子、教室から見える中庭などの具体的な視覚イメージから始まるが、不意に、突然、当時高校生だった頃の”本物の感覚”が湧き上がる。それは、匂いや肌触りや音の集合体のようにも思える。それは、当時からこれまでに経た長い歳月を一気に逆行したかのような感覚である。しかし、現れたと思う手前で、それは瞬時に消失し、やはり具体的な視覚イメージのみが残ることになる。この過去の真のイメージともいえる複合的な”雰囲気”のあり方については、ベンヤミンにおいて端的な記述がある。

過去の真のイメージはさっとかすめ過ぎてゆく。それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ、過去はそのようなイメージとしてしか、しっかりととどめておくことができない。

このように無意志的記憶とは(タルコフスキーの言葉を借りるならば)霧や雲のように掴みどころのないものであるが、僕が具体的な視覚イメージから一瞬到達できると思えるように、意志的記憶とは密接に関係していることが分かる(後述するが、それは悲劇的ともいえる)。

ところで、僕が高校生だった頃の複合的な雰囲気を無意志的記憶であると断言できる要因とはなんだろうか。それは次で述べる『アウラ』の観念に由来する。

 

アウラ』の観念

僕に去来した複合的な雰囲気は、過去のどこかの時点で確かに経験したもの、あるいは経験したものの総体であるに違いない。それは生活の流れの中で「いま、ここ」というある時点に特有の状況であり、それを形づくる知覚と印象を切り取ったものであるといえるだろう。ベンヤミンにおいて、この「いま、ここ」という一回的な特質は『アウラ』と呼ばれている。

オリジナルのもつ「いま、ここ」という特質が、オリジナルの真正性〔本物であること〕という概念をつくりあげる。

逆にいえば、真正であるならば「いま、ここ」という特質が備わっていることになる。単なる逆説的な言い換えではなく、無意志的記憶がそれと分かる特徴として、アウラを備えていることは、同様に記述がある*1

無意志的記憶のうちに根づいたものでありながらも、ある直観の対象のまわりに集まろうとするイメージを、その対象のオーラと呼ぶ......

無意志的記憶から浮かび上がるイメージの他と異なる特徴は、そのイメージがオーラを持っているということである......

僕が想起した雰囲気が、高校生の頃の”本物の感覚”であると判断できたのは、それがアウラをまとった無意志的記憶だったからだ(あるいはそう思いたい)。ここで述べられているアウラの感覚を、タルコフスキーは複製技術である「映画」において産み出そうとした。彼の一回性へのこだわりは凄まじいものがある。

映画は、現実の動きそれ自体を、事実記述に基づく、具体的な反復不可能性のなかで、記録する手段として生れた。この現実の動きそれ自体とは、移ろいゆく流動性のなかで、一瞬一瞬、幾度でも再現される瞬間のことである。......われわれは、現実を、われわれによって描かれた一瞬一瞬の、触知可能な具体性のなかに、その手触りと感覚において、反復不可能なもの、ユニークさのなかに固定するのである。

ここで「反復不可能なもの」「ユニークさ」と呼ばれているものが、アウラと近しい一回性の権化として、彼の著書の中で度々現れる観念である。彼はその反復不可能性を反復可能性を持つ映画において表現しようとする背理的試みに囚われていた。

ここにおいて、ベンヤミンタルコフスキーの思想は対立しているように見える。ベンヤミンは、複製技術(映画)において、アウラは衰退を免れないと述べている。

いくつも複製を作り出すことによって、複製技術は、複製されるものを一回限りのものとして出現させるのではなく、大量に出現させることになる。

複製によって真正性は失われ、ユニークな現象は霧散してしまう。しかし、これは芸術作品そのものについての考え方である。タルコフスキーは映画(彼はこれを”芸術”であると言っていた)を通して、観客に対してアウラに似た一回性のユニークさ、人生の感覚を与えたいと考えていた。そのため、映画の中に一回性そのものを取り込まなくてもよい。映画が一回性を呼び覚ませばよいのである。この考えがあったからか分からないが、タルコフスキーは一回性(ユニークさ)の持つ二面性について把握していた。

パラドクスは、イメージのなかに具体化されているもっともユニークで、反復不可能なものが、奇妙なことに典型的なものになるということだ。どれほど奇妙に思われようとも、典型的なるものは、それとまったく似ていないようであるが、単一的なもの、個人的なものとの直接的な関係のなかに存在している。

ユニークさ、反復不可能性が持つ典型的な側面を認識し、それを数々の物語の登場人物やドラマツルギーのうちに見出していたからこそ、彼は一回性の映画への適用可能性を確信していたのではないだろうか。しかし、上記の引用文においてみられる「具体性」「事実記述」などのキーワードから明らかなように、映画は本質的に”近い”ものである。この”近さ”が、タルコフスキーの試みを困難なものにしていた。

”遠さ”と”近さ”

話が前後するようだが、そもそもアウラとは、強い「まなざし」によって生起する。まなざしの強さは、まなざしを向ける対象が持つ”遠さ”による。僕が過去を思う時、それは現在から過ぎ去ったものとしての遠さがある。この遠さに注目すること(先述の例でいえば、学校の視覚イメージを意志的に思い出すこと)で、注目された対象は「まなざし」を返してくれる。この結果として一回性の現象が発掘される。

見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを開く。ある現象のオーラを経験するということは、この現象にまなざしを開く能力を付与するということである。

この”遠さ”とは、粗削りであることを承知でいえば”不明瞭さ”であるといえるだろう。不明瞭なものに対しては、より注目して理解しようとする。芸術作品においても、この不明瞭さは存在する。何を表現しているのかよく分からない絵、読めはするが理解不能な文章、いまいち聞き方が分からない音楽などである。こうした不明瞭さ≒遠さが本来の芸術作品の持つ特質であり、そこから一回性が生じるのに対し*2、複製技術(映画)は”明瞭”≒”近”すぎるために、まなざしを向けられる余地がない。つまり、注目し、想像力を働かせる余裕がないということである。

その複製技術の”近さ”は、その高度の具体性・事実記述性に由来する。特に映画においては、その場の状況が音・映像・文章により、瞬時に明確に認識できる。そして、何より「速い」。しかし、明瞭であるがゆえに速くても(芸術作品に対する理解の基準で比べれば)理解したと思える作品がほとんどである。こういった理由で、ベンヤミンは、複製技術はまなざしによる想像力を励起させないために、アウラ(一回性)を生じさせることが困難であると考えた。

しかし、この映画の持つ具体性・事実記述性を用いて、その奥に”遠さ”を生み、芸術作品を鑑賞するのと同じように、観客にまなざしを開く機会を与えようとしたのがタルコフスキーである。彼は、まさに具体性こそユニークさへの扉だと考えていた。

観察は正確で具体的であるほど、それだけユニークなものになる、反復不可能であればあるほど、それだけイメージに近づく。

彼が考えていた手法は、僕が過去を思う時の手順と似ている。具体的な視覚イメージ(意志的記憶)を並べて、それに対してまなざしを注がせる(つまり視覚イメージで補えない空白(無意志的記憶)を強調させる)ことで、アウラ(一回性)の現象を呼び覚まそうとした。そのイメージが具体的であればあるほど空白が際立ち、求めていたユニークさが出現するというわけである。だからこそ、彼は記憶の具体性にこだわった。それは意志的記憶に過ぎなかったが、経験した事実をありのままに装飾なく、映画に入れ込んでいた。その代表的な作品が『鏡』である。この作品において、彼は幼少期からの自身の具体的な歴史を織り込んだ。しかし、彼の試みは結局さほど成功したとはいえない。つまり、大多数の人間に一回性を想起させることは難しかったということだ。

ここで、ベンヤミンタルコフスキーの思想の違いを明らかにしておきたい。先に述べた通り、ベンヤミンは芸術作品そのものについて記述しているように思える。その理論は芸術作品対複製技術という構図で展開されている。確かにその次元であれば、複製技術において一回性を再現することは難しいであろう。しかし、複製技術の内側においてならば、実現可能性があるのではないだろうか。それは、複製技術の中において芸術作品を創造する、もしくは人生を再現するということだ。これは、映画監督という職人の次元で思考したタルコフスキーだからこその創案であり、彼は究極的にはその手法を実現したかったのではなかろうかと思う。また、映画の未知性については、ベンヤミンにおいても素朴な記述がある(可能性としてではないが)。

カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは別種のものであるということがよく分かる。

しかし、タルコフスキーは自身の活動期間のうちに、その手法を完全には確立できなかった(少数の人間には”人生の感覚”をもたらすことができたようだが)。映画の”近さ”という本質的な特質は、大衆から否応なく”まなざし”を向ける機会を奪う。映画は”近い”ものであるという認識がすでに広まっている中では、反復可能性の中に反復不可能性を築き上げるという矛盾的な試みは、かなりの苦境を強いられるといえる。

 

瞬間の永遠性

複製技術の時代においてはアウラ(一回性)を発掘する機会が失われていると解釈できる。そのため、もし今後タルコフスキーのように矛盾的な試みを考える人が出てきて、手法が確立されたとしたら、映画からもアウラを引き出せる可能性はある。つまり、ここでは”持続”によるアウラの”体験化”によって一回性が衰退しているわけではない。持続によるアウラの衰退は、単に”回想”によって起こる。

ちなみに、こういった発掘物は一回限りのものである。回想がそれらを自分のものにしようとすると、その手からすべり落ちていくのだ。

ここで述べられていることこそ、アウラの体験化、つまり意志的記憶化である。ベンヤミンにおいては、アウラの発掘(無意志的記憶の知覚)を”経験”、意志的記憶に基づくものを”体験”として区別している。「すべり落ちていく」とは、その無意志的記憶を引きあげることができないということではなく、その無意志的記憶に付随するアウラが霧散するということである。それは、回想の繰り返しによって一回性を喪失してしまった無意志的記憶が、意志的記憶の中に組み込まれた状態である。この段階になっては、現象の想起に真正の感覚は生じず、味気ない不毛なものとして知覚される。つまり、”慣れ”たせいで、良い意味でのショックの効果が無くなっているといえる。

このようにショックが迎え撃ちにあい、意識によってショックがこのようにかわされることで、このショックを生み出す出来事に、的確な意味で体験という性格が与えられることになる。それによって、この出来事は(意識的な回想の保管室に直接この出来事を組み込むことで)詩的経験にとって不毛なものになる。

アウラとは「いま、ここ」の時点で特有の複合的な雰囲気であった。それは、瞬間を形成する知覚・印象であった。回想によって、その瞬間は真正性を喪失しかねない。僕も何度か想起に立ち会っているが、そのような回想を続けていると、いつの日か瞬間が零れていく可能性はある。真正性を保存するためには、回想を止める、引いてはアウラを呼び出す視覚イメージの放棄が必要となる。しかし、アウラをまとった無意志的記憶の感覚は、僕に”癒し”を提供してくれる。それは、当時の感覚をそのまま与えてくれるという点で、上質なリアリティを備えたタイムリープといえる。その感覚は手放したくない。だが、時間が経つにつれ、具体的な視覚イメージ(意志的記憶)が勝手に消えていくことがあるかもしれない。意志的記憶をトリガーとして、まなざしによる注目を介して生じるアウラは、そのトリガーを失うことになるので、深奥に潜んだままになるであろう。その時、その「いま、ここ」という瞬間は永遠に真正性を保障される。

つまり、「瞬間とは無意志的記憶である限りにおいて永遠である」といえる。

 

補足

書いているうちに連関を見出せた箇所がほとんどだったので、もしかしたら全然的外れなことを言ってるかもしれない......もし、そうだったらすみません。

でも、久しぶりに長文書いてなんか晴れ晴れとした気持ちです。

寝よ。

 

*1:本文内では「アウラ」は「オーラ」と言い換えられている。確かに直感的に分かりやすいが「アウラ」の方がかっこよくない?

*2:芸術作品における一回性も、過去を思う時に生じる一回性と本質的には同じである。僕が経験した複合的な雰囲気が「いま、ここ」という経験に根ざしたものであるのと同様に、芸術作品も、その表現技法の辿った伝統的な道筋や所有関係の移転等の物質としての歴史から切り出された一回性の現象を返してくれるだろう。それは”神聖さ”という曖昧なものとして知覚される。たぶんね。