【まとめ】永遠の歴史(J.L.ボルヘス)

 

こういった思想書を読んでいる時、僕が行っている作業は、単に書いてあることを整理しているだけだということに気づいたので、「まとめ」とさせていただきます。

なんたらoffで見つけて雑に買いました。エッセイ集なので文学論とか時間論とか様々な思索をまとめたものですが、とりあえず「永遠の歴史」「循環説」「円環的時間」の三編を読んだので、まとめておきたいと思います。

 

永遠の歴史

その名の通り永遠に関する哲学的な思索と、その歴史をざっとまとめた論考であり、大きく三部に分けて書かれています。一部ではプラトン的永遠(実在論に根拠を置く)、二部ではキリスト教的永遠(唯名論に根拠を置く)、三部ではボルヘス自身の永遠観が述べられています。永遠とは「あらゆる事物(時間も含む)が同時的に存在し、全体が一であり、不透明なものはなく、限りなく透明で澄み渡っている状態」みたいなことが書かれていました。実在論的永遠論では、個物(人間や動物、植物など世界に存在する事物)に先行する普遍(諸々の事物の原型。最終的には相違・相似・幾何などの概念となる)が実在すると仮定して、それら普遍の集約が永遠であると解釈します。この論においては、我々に創造性は皆無であり、全ての行為は普遍のコピーに過ぎないということになります。対して、唯名論的永遠論では、実在は個物のみであり、普遍は人間の仕立てた虚妄であると説きます。この論では普遍という個物を維持する概念が存在しないため、個物を創造すると同時に、不断に保存する何者かが必要になります。創造と保存を司る「全知」の存在、それは全てを一瞬にして観測し記録できる永遠的な力を持ちます。つまりこの論では、創造と保存を一つの存在に集約させ、その存在の持つ「全知」という属性を永遠として解釈しています。もしその存在がよそ見をすれば、我々は一瞬にして消え去ることになります。

最後に、ボルヘスは「時間の中に永遠の客体が存在する」という考えを前提に、上記の両論のような思索に基づくものではなく、実体験に基づいた心的過程の分析を通して、永遠の知覚について述べています。ボルヘスはある夜のこと、とある街角で「まるで十九世紀にいるかのような」感覚に包まれます。その時の気候、月光の具合、香り、雰囲気などが調和した時、そのような感覚が起こるらしいですが、ボルヘスはそれを”実際に”十九世紀にいたと解釈します。まさにその瞬間に彼は時間の中にある永遠の客体に触れたのであり、”まるで~かのように”感じられるのは我々が時間という幻想に縛られているからだと解釈できます。時間は訪れては過ぎ去っていくものであるがゆえに、瞬間は個性を生みますが、仮にそれが幻想に過ぎず、永遠が本質なのだとしたら、瞬間は個性を喪失し、透明に澄み渡ってしまいます。この考えは、なんかちょっと寂しいなと思います。

 

循環説

この論考では永劫回帰について述べています。宇宙に存在する原子(それか何かしらの最小単位)は有限であることを前提とし、事象のとりうる状態をそれらの順列組み合わせだと仮定すると、それら組み合わせも有限となり、どれだけ長い時間を経たとしても必然的に同じ事象が繰り返される、という考え方です。端的に言えば、我々は過去と同じことを、そっくりそのまま繰り返している可能性があるかもね、ということだと思います。古代ギリシアから似たような考え方は提唱されていたようですが、一般的にはニーチェの思想として定着しています。この論考においては、そのニーチェの考え方に対し、根本を崩すような対立思想を挙げています。すなわち、宇宙を構成する最小単位は無限説です。カントールという人の考え方で、いわば思考遊戯のようなものですが、宇宙の任意の空間を切り取った際に、その中に存在する点の数は、その空間をさらに切り取った部分的な空間内に存在する点の数と本質的には同じと考えます。どれだけ小さく切り取っても、そこに空間がある限りは、それを構成する点が存在するため、最小単位は無限となります。そうなると可能な順列組み合わせも無限となるため、永劫回帰の思想は危うくなります。また、ニーチェ永劫回帰の”記憶”との確証については特に言及しておらず、時間の流れにおいて起こり得ると仮定しておきながら、記憶との関係性が明らかになっていないところが「う~ん」となるところだと思います。個人的にはそもそも時間の流れを前提としていることに違和感があります。この考え方だと、可能な組み合わせの状態は同時的に存在していて、我々の意識が状態から状態へ飛び回っているイメージで、それだと過去も未来も現在も無いのでは?と思った...が、いや、飛び回っているということは時間が流れているということかな...?うーん、どっちなのか分からなくなりましたが、おそらく記憶を持つがゆえに過去ができ、現在までの過程が分かり、そこから未来を予想してしまうので、時間という枠が出来上がってしまうのかもしれません。時間が幻想なのだとしたら、記憶を遠因として我々はその幻想に縛られているということでしょうか。すべて記憶が悪い。忘却がいい。

 

円環的時間

ここでは、永劫回帰の形式をまとめています。かなり短い論考で、占星術的な永劫回帰、同一事象が反復する永劫回帰、類似的事象が反復する永劫回帰の三形式をざっくり紹介しています。占星術的な永劫回帰は、いわば予言のようなものです。長大な時間を経た後に歴史は再び繰り返されるであろう...みたいな。同一事象が反復する永劫回帰は、上記のニーチェの考え方が主流となりますが、時間の流れを前提としない思想も含まれているようです。時間の経過にしたがって状態が組み上がっていくのではなく、すでに組み上がった状態が同時的に存在しているという考え方です。

最後に類似的事象が反復する永劫回帰ですが、おそらくこれはボルヘスの持論です。永劫回帰というワードで分類すべきかどうかですが、要するに個人の経験のレパートリーは有限なので、昔の人が経験したことと似たようなことが、その個人の人生においても繰り返されることがあるだろうと述べています。俗っぽい感じになり、”個人”を焦点としたかなり限定的な話になったのが気になりました。今までの論を踏まえると、レパートリーが有限ならば同一事象が繰り返される可能性もあるのでは?と思ってしまうので、”類似的”という点をあくまでも維持しつつ考えてみると、次のようになるかなと思います。すなわち、個人の認識・感情・思考などの枠組みは有限であるので繰り返される可能性はある。しかし、巡ってきた枠組みにおける個人の経験の細部は全く同じとはならず類似的であるにとどまり、経験の流れ(運命)のみ枠組みに従う、という考え方です。

 

以上、まとめてみましたが、時間の流れが実在するのか、記憶のせいで時間の流れを錯覚しているだけなのか(状態は同時的に存在するのか)が分からないのがモヤっとします。やっぱり記憶が悪い。忘却がいい。

 

最後に、本内容とは関係ないですが(考察次第では関係しているかもしれませんが)、「永遠」と聞くとウィリアム・ブレイクの詩を思い出します。『博士の愛した数式』で出てたやつです。いい詩だと思います。

一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見 
てのひらに無限を乗せ
一時のうちに永遠を感じる

 

またなんか気が向いたらまとめたいです。