【感想】シダネルとマルタン展

 

先日、SOMPO美術館で開催されている『シダネルとマルタン展』に行ってきたので感想など。

www.sompo-museum.org

シダネルとマルタンは、同時期に活躍したフランスの画家で、絵画史においては印象派の後期に分類されるらしい。美術のことはあまり詳しくないが、印象派の絵画は風景画が多く、単純に綺麗だなという気持ちで見れるので親しみやすい。こちら二人の作品も風景画が多く、綺麗な絵を見て憩いの時間を過ごせたという満足感はあった。

しかし、同時に思ったのは、全体を通して幻想性が強いということである。描かれるものの輪郭は曖昧で、人物が配置されていても顔のパーツが無く、表情は読み取れない。(印象派の作品にはありがちかもしれない)こうした特徴を持つ絵は、ぱっと見では良いのだが、見つめていると、ただ絵の具を塗り重ねたものにすぎないと感じられる。人や物がそれ自体として受け取れなくなり、ただの”絵”であることを痛感させられる。

f:id:rDice:20220410154727j:plain

「花咲く木々」(1902年)アンリ・ル・シダネル

対して、フェルメールの絵はそうした特徴とは真逆にある。直近で東京都美術館の展覧会に行ったので引き合いに出してしまうのだが、『窓辺で手紙を読む女』を見てみると、この絵が確固たる現実に立脚していることがよく分かる。中央の女性の表情を起点として、皺の寄ったカーテン、放たれた窓から差し込んでいる光など、まさにその時その瞬間がそのまま切り取られているかのような印象を受ける。見つめていると、窓から入り込んでくる風に手紙がはためく音、女性の緊張した息遣いまでが聞こえてくる気さえする。もちろん、これが絵であることは頭では分かっているのだが、知覚としては、絵を見ているというよりは、描かれたもの自体を見ている。それらは、絵となり額縁にはめられなければ動き続けていただろうし、その生の実際に伴う力動性は絵となってからも失われていない。

f:id:rDice:20220410162103j:plain

「窓辺で手紙を読む女」(1657-1659年)ヨハネス・フェルメール

シダネルやマルタンの絵は、そうした力動性を脱却した生の上澄み部分を基礎においているため、現実が醸し出すくどさとは無縁である。そのために、夢や記憶の中のような、個人の心象風景のような、幻想的な作風に仕上がっている。

しかし、その作風を人物のみに焦点を当てた形で適用すると、かなりグロテスクな知覚を生む。マルタンの人物画『青い服を着た少女』は、その曖昧さゆえに、はじめは柔らかな印象を受けるが、見続けていると細かい点があらわになり、顔面がぽろぽろと剝がれていくような恐ろしい感覚を引き起こす。だが、この見え方によって、生の実際からかけ隔たった強烈な幻想性を備えていることが直感的に理解できるのである。

f:id:rDice:20220410181018j:plain

「青い服を着た少女」(1901-1910年頃)アンリ・マルタン

 

怖かったけど、なんか欲しくなって「青い服を着た少女」のポストカード買ったわ。