日本庭園

父親が近ごろ日本庭園を好んでいて、付き添いで行くことが増えた。三渓園、浜離宮恩賜庭園、新宿御苑など、有名なところしか行っていないが、手軽に綺麗な景色が楽しめて心を落ち着けることができる素晴らしい空間だ。しかし、その魅力を説明しろとなると意外と難しい。自然を感じられることが魅力ではあるのだが、単にそれだけで説明できるものではないような気がする。肝心なのは、どのような形で自然を感じられる仕組みになっているのかということだと思う。
まず、魅力の一つの要因として、周囲環境との関係性を考えてみる。都市の中に作られることの多い庭園は、それだけで異質な空気を放っている。両側を高いビルに囲まれた大通りを歩いていると、突然鬱蒼と茂る背の高い木々があり(六義園)、それが線路の脇まで広がっていることもある(新宿御苑)。大抵の庭園は外側からあまり見えないようになっていて、都市空間とは隔絶された特異な空間であることを主張している。庭園に踏み込んだ時の開放感は、閉じられている空間に内部が存在したということ、想定していたよりも広いところだという「発見」の感覚に根ざしている。私たちは入園の都度、その発見の感覚を反芻しているのではないだろうか。そして、発見を皮切りとして、私たちは庭園が完全に異質ではないこと、むしろ都市空間と微妙な形で調和していることに気づくだろう。庭園の背景に広がる高層ビルは、都市と自然との、ある点での繋がりを感じさせる(浜離宮恩賜庭園、新宿御苑)。
その「ある点」が二つめの要因なのだが、よりミクロな視点に立って考える必要がありそうだ。庭園の構造として、各人が自由に散策できるようになっていることは、マップを見ればわかるだろう。美術館や博物館のように順路は存在せず、どの道を進むかは自由に判断できる。そして、道に沿って様々なオブジェクト(木、池、島、岩、丘)が配置されており、私たちはそれを様々な角度から鑑賞することができる。池に浮かんだ小島は平地から見ればただの松林だが、丘の上から見れば松林の中に家があることに気づく(後楽園)。そして、どの角度から見える光景も調和が取れていて「間違いではない」と感じられる。各オブジェクトは、全方向とは言えないまでも、極めて多方向に自らを表現している*1。要するに、どの方向から見てもそれなりに写真映えしてしまうのだ。日本庭園を歩いていると、つい写真を撮りたくなってしまうのはこの点に由来する。そしてまた、オブジェクトの配置の仕方にも妙がある。庭園の端にある森の中を進むと東屋があり、小さな水たまりに落葉したイチョウが浮かんでいるのを見つける(六義園)。その時、私たちは実際に東屋を、イチョウの葉が浮かぶ水たまりを「発見」したのであり、それは純粋な自然において何かを「発見」したときの感覚と同等のものだ(山奥にある滝、山頂からの眺望)*2。第一の要因における「発見」は、都市空間における異質性が前提になっていたのに対して、ここでの「発見」は自然における自由性が前提となっている。この意味内容の差異が、日本庭園の性格を本質的に説明しているように思われる。
以上で取り上げた二つの要素、多方向への表現、および発見の感覚は、私たちが通常、自然の中である程度の時間をかければ達成できるものだ。険しい山道を進み、その先に美しい渓流を見つけたり(発見)、ひとつの山を北側から眺めるのと南側から眺めるのとで感じ方が変わったりする(多方向への表現)。それらは純粋な自然において「スポット」と呼ばれているものであり、労力や時間をかければ到達できる場所ではあるが、極めて限定されている。日本庭園ではスポットが無数に存在する。おそらく足を運ぶたびに新たなシャッターポイントを見つけることができるだろう。つまり、日本庭園においては、純自然的な感覚は各オブジェクトに凝集され、効率的に知覚できるように秩序立てられていると言うことができる。自然を整理して秩序立てることは、都市形成の根幹に通ずるところがあり、それが庭園と都市との微妙な調和を生み出しているのだ。しかし、その「都市性」はあくまでも自然を管理する方法的な側面に限定されており、内実においては自然的な感覚を保護するものであるために、都市環境との摩擦を解消するまでは至っていない。都市の内にある自然、自然の内にある都市性。自然的感覚の面では異質でありながら、秩序の面では都市と調和する。その奇妙な両義性ゆえに、私たちは日本庭園に惹かれるのだろうか。これは今後も庭園散策を楽しむためのヒントになりそうだ。