ゆらぎ

『シネマ』で提唱された〈性質記号〉*1という概念は、事物が認識される過程において、我々の意識による特定によって、事物それ自体のポテンシャルが覆い隠されてしまうことを示唆している。いわば、事物は我々に認識されるために改変されてしまっているのであり、それ自体の持つ本質の部分と、恣意的に形成される表象の部分に、強制的に切り分けられているのである。しかしながら、その本質部分は完全に姿を消すことはなく、事物の認識過程における、ごくごく初期の段階、その発生的なレベルにおいて知覚されうる。ヨリス・イヴェンスの『雨』*2を取り上げて、ドゥルーズが明示して見せたのは、その儚くも力強い本質の力能である。この映画において、雨は「どこでもなく、どこでもある」ものとして描かれる。各ショットは、いつどこで降っている雨なのかを我々が正確に認識する前に、短いスパンで切り替わる。場所と時間を特定しない〈任意空間〉*3における雨の在り方によって、雨の純粋な力能、本質としての雨が提示されているのである。それは、事物として特定の座標を持たない、(我々の認識する限りの)実体を持たない、ある種の抽象的概念であるにもかかわらず、その力能においては、実体を備えた(我々によって現働化された)雨よりも、はるかに強力な雨の印象をもたらす。この一連の事物の切り分け、本質の瞬間的な知覚のプロセスは、この映画を通して分かりやすく説明されているだけであって、実際には日常においても経験されうるものである。朝、外に出る。雨が降っている。傘を指して駅に向かう。この何でもない一連の日常行動の中でも同じように本質としての雨を知覚しうるタイミングが存在する。「外に出た瞬間」である。ドアを開けたその一瞬、濡れた地面とはじける水滴を目撃したその刹那に、雨の純粋な力が湧きたち、質として最高のポテンシャルを備えた「雨」が現前するのである。その後、信じがたいほど短い一瞬後に、雨は「いまこの時」(時間的表象)「家の外で」(空間的表象)降っているものとして座標上に固定され、我々に認識できる事物として規定されていく。
ところで、このプロセスを俯瞰して逆進的に捉えるならば、事物とは恣意的な切り分けがなければ、もともとは任意空間において存在しているものといえる。時空間的に固定されなければ、事物はそれ自体として、純粋な力能をそのままに保ち、永遠にポテンシャルを放ち続けることだろう。そう考えると、ひとつの仮定に行き着くことができる。前現働化状態こそ事物のリアルな側面であって、現働化された事物(つまり、我々が認識するリアル)の方が、むしろ抽象的概念にほかならないのではないかということだ。認識の過程それ自体によって事物のリアルが歪んでしまうのだとしたら、我々にできることは、ひとつの形として規定された事物を分解すること、見えているものをそれとして受け取らず、それの否定として視ることである。ここに至って、抽象芸術というものの意義がわかる。目に見える事物のフォルムを否定、解体することによって、何が「抽象」で何が「リアル」なのか、抽象とリアルの所在を再規定することがひとつの目的なのである。クレーやアドルノの芸術論において、前現働化状態への指向、現実的なものの否定については数々の記述がある。
あらゆる抽象化にもかかわらず、事物がリアルなものに止まるとは、興味深いことである。この差異を非常にしばしば抽象芸術の内部で感じとることができる。リアルなものが消えてしまうところまで、抽象化が進められるかどうか、つまり、リアルなものが非物質化されるか、そうでないか。*4
芸術作品をして芸術作品たらしめている即自存在とは、現実的なものの模倣ではなく、いまだまったく存在することがない即自存在の先取り、つまり未知のものであって、主観を通して規定されるものの先取りにほかならない。*5
芸術は風景を、風景そのものの否定の表現として描く場合にのみ、現象としての自然に忠実なものとなる。*6
......美はきらめきながら出現し、物のように捉えようとするとたちまちにして消え去る。*7
しかしながら、抽象芸術は事物を「我々が認識できる形で」解体するほかないのであり、規定されたフォルムを否定することは間違いないが、新たに何がしかのフォルムを再規定することで事物の本質を(前規定ほどではないかもしれないが)覆い隠してしまう可能性がある。再規定されたフォルムによって、たしかに以前よりは前現働化状態に近づけるかもしれないが、ひとつの物として具象化されているという点において、やはり時空間的な規定の範疇にあるのである。そのため、どこまでいっても本質の近似値しか得ることしかできないのだが、それは先述した認識過程における発生的エレメントとて変わらない。とはいえ、本質の在り方をひとつのフォルムとして説明することで、発生的エレメントもまた知覚のレベルにおいてはフォルムとしか形容できないことが思い起こされる。抽象芸術という確固たるフォルムを持たざるをえない活動を通して、我々の認識過程の初期段階に得られる、あの純粋な力能が、ある種の幾何学的概念としか表現できないことを理解するのである。それを可能な限り具体的に言語化したものとしては、以下の引用がふさわしいだろう。
......それは自然的、実在的な幾何学、この自然のうちに現に存在する具体的・実在的な個々の存在を関連づける幾何学......*8
逆にこの概念を簡潔にそぎ落として表現して「ゆらぎ」「うねり」「波」などと呼んでも差し支えないだろうか。スピノザはこの幾何学的概念を〈共通概念〉*9に発展可能なものとして、基本的に抽象を退ける傾向にある『エチカ』の中で、この抽象概念のみは虚構と区別できるものとした。
幾何学的概念は、なるほど抽象的な概念、たんなる思考上の存在にすぎないが、これは共通概念から抽象された概念であり、したがって共通概念がそこから救い出されれば、同時に幾何学的方法自体も、これまでその枷となり、抽象概念を介さざるをえなくさせてきた制約から解放されることになる。*10
注意すべきは、この共通概念もまた、事物の本質それ自体ではないということだ。スピノザの理論は、事物は永遠の本質を持ち、それら個々は各自の外延的諸部分によって構成されており、事物同士はその構成を関係させ変様することによって、ある様態を現前させるという基本方針によって成り立っている。共通概念はその構成関係上の合一、ある様態において共通してみられる資質だとされている。スピノザの思想に結びつけて考えるならば、今までの図式を書き換える必要がありそうだ。つまり、事物の内側から、本質-共通概念-幾何学的概念という三区分に細分化して捉えなければならない。任意空間において事物が無規定の状態において存在していること、つまり本質が永遠の様相のもとで在りうることは先の推論によって導出された通りだが、認識の初期段階において発生的に知覚される純粋な力能は、本質それ自体の顕現ではなく、本質を「含んでいる」共通概念の現出であることが、いまや明らかになる。いくら純粋なポテンシャルを備えているとしても、それが知覚である限り、認識の初期段階といえども、認識のプロセスの枠内に位置している限り、発生的エレメントでさえも、ひとつの観念(表象)として事物を規定する役割を担っているということだ。ただし、それは十全な観念*11であるゆえに、本質の最近似値であるといえるだろう。その観念に触れるとき、事物はおのずから自らをさらけ出し*12、本質→共通概念→幾何学的概念の順に、観念を連鎖的に発生させる(精神の自動機械*13)。その機序はあまりにも瞬発的なので、最終的に我々の内に残るのはフォルムとしか形容しえないある種の幾何学的概念のみになる。そのため、こちらから事物の共通概念を見出そうとするならば、そのフォルムとしか形容できないものを土台として、幾何学的概念→共通概念(本質の直観は不可能。推論による示唆にとどまる)の順に遡っていくほかはない。この幾何学的概念(フォルム)が共通概念の抽象だということが明らかになったいま、それが複数の事物に共通して現出されうる様態であることは自明である。あるイメージを思い浮かべてみよう。私は並木道を歩いている。すぐ先を髪の長い女性が同じように歩いている。道の脇にはマンションがあり、各部屋のベランダには洗濯物が干してある。その時、一陣の風が吹く。並木が揺れて枯れ葉が降り、前の女性の髪はなびき、ベランダの洗濯物がはためく。その瞬間、たしかにそこには「ゆらぎ」(幾何学的概念)によって合一された事物が見てとれる。気を付けたいのは、それら三者がその時その場で風に吹かれたことが共通しているわけではないということだ。それでは個別具体的な座標を規定することになり、本質から遠ざかってしまう。そうではなく、風に吹かれている各々の事物がそれ自体に現出する様態において「ゆらぎ」という点で共通しているのだ。木は木としての本質ゆえに、髪は髪としての本質ゆえに、洗濯物は洗濯物としての本質ゆえに、それぞれの本質の上に、「ゆらぎ」というフォルムを生じさせる。各事物はそれぞれ自ら確定された本質を持ち、そこから現出される様態も各々であるにもかかわらず、不思議なことに「ゆらぎ」という幾何学的概念(としか形容できないもの)を生み出すことで統一されているのである。本質のみでなく、実体として現れる様態さえも関係ないのであれば、この次元において、事物は本当は現働化される必要すらないということだ。しかし、我々の知覚の必要上、現働化されなければフォルムを見てとることができない。ここで改めて示されるのは共通概念の両義性、推論によって本質に到達できる最近似値でありながらも、幾何学的概念まで開展するために半端に現動化せざるを得ない微妙な立ち位置である。半現働化状態とも呼べるこの絶妙な地層において、各事物は合一の局面に整列されられているのである。
「うねり」の作用
波が動的なものを表現する手段として、あるいは動的な何かそのものとして扱われていることは、日常生活で使用する数々の言葉からも明らかである。「波瀾万丈」「ビッグウェーブに乗る」などの表現は、波がある種のダイナミズムを感じさせる特質を持っていることを前提としている。「曲がること」「うねること」を前にして、我々は先験的に動的なイメージを喚起する。常に変化し続ける「うねり」の在り方を、構造物に適用した時も、その作用自体は大きく変わることはない。ただし、構築された(完了している)という静的な側面との摩擦により、波の根源である大海原を見渡す時よりは、いくぶん緩慢で、少し繊細な形を取る。

陣ヶ下高架橋*1の下に広がる空間にいると、構造物に「うねり」が適用された場合の効果が直感的に理解できる。この環状二号線を支える巨大な橋梁は、アーチ構造により柱から柱へとゆるやかな膨らみを描いている。アーチの中央に向かって「ゆるやかに」膨張し、柱に向かって「ゆるやかに」収縮していく。柱に向かう収縮があるからこそ、アーチ中央への膨張がある。「徐々に」「ゆるやかに」変化していくフォルムになっているので、柱の部分による収縮=閉塞からアーチ中央への膨張=開放へと向かう動的なベクトルを観察することができる。この作用により、曲面によって構成された空間は、同じ広さで直方体によって構成された空間に居るときの開放感とは別種の開放感、「いま広がりゆく躍動」が付随された開放感をもたらす。
軽井沢千住博美術館*2においても、「うねり」が主題となっているが、こちらはかなり荒々しい形となっている。収縮と膨張のスパンが短すぎるために、どこが閉塞であり、どこが開放なのかを見失う。いわば「うねり」の最中に放り込まれるのであり、我々はフォルムを客観視することができず、閉塞と開放の両立した状態、より正確には閉塞と開放「そのもの」となる。閉塞と開放が混在している様態においては、躍動のベクトルはあらゆる方向に伸びており、我々はただ牽引されるがままに、色んな方面へ足を向ける。この美術館に入るとなんとなく歩き回りたくなるのは、一種の混乱状態ゆえである。順路がないのも頷ける。
曲線がもたらす牽引力という意味では、もう少し分かりやすい例が身近にある。カーブを描く道、うねる散策路である。

道を進むということは、見えないものを見えるようにするという行為、隠れているもの(もしくは、はっきりと視認できないもの)を明らかにする行為を含んでいる。道を曲がるポイントが「角」である場合、我々は今まで見えてなかったものに「急に」対面させられる。今まで歩いてきた道(既知)とこれから進む道(未知)への移行は飛躍的であり、一瞬間に把握しなければならない未知の量は場合によってはショックをもたらすほどである。一方で、ゆるやかにカーブを描く道の場合、既知から未知への移行は緩慢である。カーブを曲がっている最中、我々は常に未知に触れている。未知に触れ続けながら、既知を脱却し続けている。既知と未知が両立している状態において、常に「少し」未知が見えていることで、全貌を明らかにするために先へと進ませる牽引力が発生する。この先にあるのが、地獄の処刑場だろうと、秘密の花園だろうと、カーブを描く道から続いていると、その一部がある段階で「少し」見えてしまうため、対面したときのショックは、曲がり角の先にあるよりは減ってしまうだろう。
カーブを描く道(平面によるうねり)と曲面による構造(立体によるうねり)が部分的ではあるが調和している例として(究極的には球)、横浜YBPのベリーニの丘がある。

円形闘技場を模したこの構造物は、カーブを描く道と丸みを帯びた壁面とで構成されており、奥へと牽引する力と壁面の膨らみによる開放力との合力により、常に未知の「いま広がりゆく躍動」を感じながら先に進むことができる。さらには、円形という循環構造によって、その合力は止むことがなく、我々は牽引され続け、開放され続けていく。もちろん、少なくとも一周目を過ぎたら知識としては既知となるが、二週目以降も経験としては未知であり続ける。構造物という静的な対象に内包された無限の躍動、無限の牽引力。ここでベンチに座っていると、何周も駆けまわる子どもたちを見かけることがあるが、そうしたくなる気持ちもなんとなく分かる。
不在に抵抗するー『ルイジ・ギッリ 終わらない風景』感想ー
透き通るように晴れた日に大きな湖のほとりに立ち、軽やかな風にさざめく水面と木々の揺らぎを眺めるとき、あなたはその光景を美しいと感じるだろう。風が耳元を通り過ぎる音を聞き、時おり魚が飛び跳ねて立てる水しぶきのきらめきに目を細めながら、自然との一体感、ある種の満足感を覚えるだろう。しかし、そこでふと気づく。あなたが見ている風景に「あなた自身」は存在していないのである。
ルイジ・ギッリの写真から想起するのは、我々は常にそうした『不在』と共に生活しているという事実だ。どれだけ自分を着飾っても、逆にだらしない恰好をしても、鏡を見ない限りは自らの全貌を捉えることはできない。もっとも、鏡で確認できたとしても、それは我々の生のほんの一部でしかない。仮に自らを常に鏡に写しながら生活を送ったとして、筋金入りのナルシストであっても、おそらく遠からず気が狂ってしまうだろう。我々が認識する世界に我々自身がいないという事態は、正常に生きていくために必要なことであり、『不在』であることは至極当然のことなのだ。しかし、気違いにならないために無意識に受け入れているそのような『不在』の在り方をギッリは浮き彫りにする。シンプルな構図だが行為者の『不在』を鋭く突き付ける一枚がある。

絵画を鑑賞する女性、その女性を撮るギッリ、ギッリが撮った写真を鑑賞する我々、という仕組みだが、その階層を構築する試み自体は目新しいものではなく、ありふれたものである。ただ、この作品を眺めていると気づくのは『ギッリの不在』である。女性を撮っていたはずの彼がいない。彼の存在を飛び越して、我々はまるで女性を目の前に見ているかのようである。作品を鑑賞することによってメタ構造が形作られるように意図してはいるものの、我々はまさにギッリと同じ位置から女性を眺めているゆえに階層表現が成立していない。それならば、写真を撮っているギッリをこの写真に入れてみたらどうだろうと考えるが、そうなるとそのギッリを撮っている別の行為者が存在するはずで、彼もまた存在しないものとして飛び越され、我々鑑賞者はその任意の「彼」と同じ位置から作品を眺めることになってしまうだろう。どれだけ階層を重ねても同じである。鑑賞するという行為においては、作品の生みの親、行為者の絶対的な『不在』によってメタ的な階層表現は破綻せざるを得ないのである。我々が自然に受け入れてしまっている『不在』をこれほど明確に示しているものが他にあるだろうか。
さらに、ギッリの作品が示唆に富むのは、単に『不在』を指摘するだけにとどまらず、それに抵抗する意志が感じられる点である。先ほど例として挙げた鏡だが、これも静物としてギッリの作品に度々登場する。しかし、展示されている作品を見た限りでは、彼自身が鏡越しに写っているものは少なかった。写っていたとしても、カメラを向けたのとは反対側にある景色や物がほとんどだった。上述したように、自らの姿を写すという手段は『不在』に対処するための手っ取り早い対処法ではあるが、あまりにも不自然である。風景写真に鏡を差し込み、撮っている自らを写してみたところで、その自らの姿によって今度は風景の一部を阻害することになり、十全な形で風景を表現することができなくなってしまうだろう。自身を写すという直接的で無骨な方法に依らず、自らの存在を示さなければならない。そこで彼がたどり着いたのは物や記憶をもとに訴える方法だった。彼は自らの所持品を作品内に配置することで「不在である自己を特徴づけるセルフポートレイト」*1を形成しようとした。

彼の痕跡を内包したそれらの物たちは、鑑賞者に「ここに誰かがいた」という感覚を呼び覚ます。撮影者が写っていないのは当たり前なのだが、それらの物によって我々は存在の残滓を感じ取ることができる。「誰かがいた」という文言は、その瞬間には誰もいないが確かに誰かがいたという、不在と在の二重の意味を合わせ持っている。行為者の『不在』がどうしようもなく絶対であったところに、わずかではあるが自らの存在の一滴を差し込むことに成功している。一方で、記憶を利用する方法はもう少し強引である。

初めて見る景色なのは間違いないのだが、なぜかどこかで見たことがあるように思えてならない。そのような未知と既知の狭間の絶妙な揺らぎを持つ風景*2を媒介して、ギッリは鑑賞者の記憶にアクセスしようとする。この曇り空とあぜ道の写真を見て、私は小さいころ田植えを手伝っていたことを思い出した。苗を入れているトレーを持ちながら、あぜ道を裸足で歩いたこと。用水路に足を浸して泥を落としたこと。この写真がトリガーとなって、あらゆる記憶が連鎖的に想起される。もちろん、そのような記憶自体は鑑賞者個人のものだ。しかし、その連鎖的想起の過程は我々ひとりで行うのではなく、たったいま見ている一枚の写真、「曇り空」「あぜ道」といった記号的な視覚情報との相互作用に依っている。ギッリが提供する視覚記号は、彼の意志・感情といった存在の欠片によって成り立ち、それらは我々の深層記憶へのアクセスコードとなり、いくつもの記憶の箱を次々に開いてゆく再帰的なメカニズムを構築する。我々はもはやギッリの視覚記号なしでは、その状態を保つことができない。つまり、彼の写真を鑑賞することで、我々は強制的に彼の存在に依らねばならない状態にさせられてしまうのだ。多少力ずくで遠回しではあるが、このようにしてギッリは鑑賞者に自らの存在を知覚させることに成功していると言えるだろう。
行為者の『不在』という悲劇は、視覚芸術に限ったことではない。小説や音楽にしても、鑑賞者は作者を飛び越して作品を楽しんでいる。しかし、同じ作者の物語をいくつか読んでみると、同じアーティストの曲をいくつか聞いてみると、我々は何か共通するものがあると気づく。文体や曲調など分かりやすい要素もあれば、登場人物の性格や物語の運び方、使われている音源などといった、密に触れないと分からない要素もある。それらは作家性とよばれ、彼らはそれを作品に刷り込むことによって、控えめながらも自らの存在を鑑賞者に伝えているのだ*3。
最初の話を繰り返すようだが、『不在』は我々にとってありふれた事態である。しかし、その当たり前の事実を鑑賞者に訴えかける意志、写真という額縁に限定された形態に意図を凝縮する明瞭さが素晴らしい。高いけどみすずの『写真講義』も買おっかな~。
*1:『ルイジ・ギッリ 終わらない風景』展覧会カタログ〔181頁〕参照。
*2:『ルイジ・ギッリ 終わらない風景』展覧会カタログ「ギッリの写真は、「どこかで見たことがある」という既視感と、「決して見たことがない」という未知の感覚との間にある揺らぎを、私たちに鋭く突きつけてくる。」〔180頁〕参照。
*3:直接的な方法もある。例えば『ユリシーズ』で登場する「茶色の雨外套を着た男」はジョイス自身であるという解釈がある。端々で登場しては素性の明かされないそのミステリアスさに、読者は意識せざるを得ない。(V・ナボコフ『ナボコフの文学講義 下』「『茶色の雨外套を着た男』というのは、作者自身を措いてほかにない。」〔邦訳、274頁〕参照。)
ハーバリウムの美学:everlasting flowers感想
友人に勧められたが長らく積んでしまっていた本作。そろそろやらねばと思って手をつけてところ、四時間ぐらいでエンディングまでたどり着けた。選択肢は存在せず、直線のシナリオをただ鑑賞するだけのシステム。適切なシーンで適度に感動でき、コンパクトにまとまった良作である。ストーリー自体はいたって普通で、あることをきっかけに塞ぎ込んでしまった少女・深菜が、親の勧めで海辺のペンションで一ヶ月間バイトをすることになり、そこで共に働く仲間と親交を深めていき、徐々に閉じていた心を開き、更生していくというものである。はっきり言うと、設定として新規性を感じられる部分はない。深菜が不登校になった理由は思春期によくある軋轢であり、テーマとしては使い古されている。海辺というロケーション、更生施設化したペンションと優しい仲間たち、深菜を救う役目を担う蘭という存在、その蘭もまた心に傷を抱え、深菜と同じようにペンションの仲間に救われた過去がある...など、諸々のコンセプトに既視感がつきまとう。特に際立った叙述トリックがあるわけでもなく、核となるペンションの秘密もある程度予想可能なものだ。....と書くと、まるで酷評しているように見えてしまうが、本作の良いところは、もう少しだけ微妙な箇所にある。
物語の終盤、深菜は美智子の後を継ぐという陽毬の夢を実現させてあげたいと真剣に考えはじめる。蘭はそれを聞いて「陽毬の夢を自分の目標と思い込んでいるだけだ」と深菜を厳しく叱責する。まずは自分の面倒を見れるようになってから他人の心配をしろというわけだ。深菜は自分がただ居心地の良い場所にいたいだけなのだということを思い知らされる。彼女は逃避しつづけるか、現実に向き合うかの選択を迫られる。最終的には、現実に向き合うことを選ぶわけだが、どうしても怖いものは怖い。そこで蘭は「この日々の思い出を糧に生きていけばいい」と説得する。つらいことや苦しいことがあっても、楽しい仲間との日々を思い出せば乗り越えられる。いつでも心の中にみんながいる。この考え方が深菜の判断を後押しして、彼女はペンションを旅立ち、現実の世界に戻っていく。素敵なのは、この考え方が人物のセリフやテキストだけではなく、『ハーバリウム』を通して表現されている点だ。花を綺麗な状態のまま長期間保存・鑑賞する機能と、綺麗な記憶を心の中に保存し、折に触れて思い出す(鑑賞する)行為とが対照され、文学的な接合点が生まれている。このふわっとした象徴性が本作のおしゃれなポイントといえる。
ハーバリウムはまた、思い出を鑑賞することの背徳性をも象徴する。芽吹き、咲き誇り、散りゆくというサイクルに背き、美しい瞬間だけを閉じ込める罪深さ。現実を直視することから逃れ、過去に浸ってしまう心理作用にも同様の罪悪感がつきまとう。そして、その逃避効果は永遠に続くものではない。ハーバリウムが花を美しく保てる期間は半年から一年程度であり、いずれは枯れる運命にある。それは逃避効果が期限付きであり、現実に向き合うまでのモラトリアム的作用に過ぎないことを類推させる。蘭や紗波は一見それを理解しているように見える。彼女たちは「花は枯れるからこそ美しい」という価値観を対外的には表明している。ただ、結局のところ彼女たちも一年置きにペンションに戻ってきていることに注目したい。蘭は「自分がしてもらったように誰かの背中を押したい」という理由で、紗波は「蘭が困っているから」という理由でそれぞれ戻ってきた。しかし、それは表向きの言明であって、本心は『薄れていく思い出を更新したい』という気持ちにあったと考えることはできないだろうか。深菜だけでなく、彼女たちもまた現在進行形で苦しい現実に直面しており、日々ペンションでの生活を思い出しながらなんとか生きている。過去に拘泥することが愚かなことだと分かっていながら、劣化したハーバリウムを作り直すように、思い出を必死に保とうとしているのだ。その意味では、蘭と紗波は深菜の背中を押したと同時に、ひとつの罪悪を背負わせたことになる。それはおそらく今後の深菜の人格形成に大きく影響してくることだろう。
過去に囚われることには否定的でありながら、その過去自体が美しいことは肯定する。ハーバリウム的な生き方を選んだ人間には、この否定的肯定とも肯定的否定とも呼べるような歪な心理状態が存在している。それはぐるぐると渦を巻き、心を支えもするし蝕みもする。しかし、彼女たちはそのような在り方でも、少しずつ前に進んでいるのだ。私はそれを肯定したいと思う。
日本庭園

父親が近ごろ日本庭園を好んでいて、付き添いで行くことが増えた。三渓園、浜離宮恩賜庭園、新宿御苑など、有名なところしか行っていないが、手軽に綺麗な景色が楽しめて心を落ち着けることができる素晴らしい空間だ。しかし、その魅力を説明しろとなると意外と難しい。自然を感じられることが魅力ではあるのだが、単にそれだけで説明できるものではないような気がする。肝心なのは、どのような形で自然を感じられる仕組みになっているのかということだと思う。
まず、魅力の一つの要因として、周囲環境との関係性を考えてみる。都市の中に作られることの多い庭園は、それだけで異質な空気を放っている。両側を高いビルに囲まれた大通りを歩いていると、突然鬱蒼と茂る背の高い木々があり(六義園)、それが線路の脇まで広がっていることもある(新宿御苑)。大抵の庭園は外側からあまり見えないようになっていて、都市空間とは隔絶された特異な空間であることを主張している。庭園に踏み込んだ時の開放感は、閉じられている空間に内部が存在したということ、想定していたよりも広いところだという「発見」の感覚に根ざしている。私たちは入園の都度、その発見の感覚を反芻しているのではないだろうか。そして、発見を皮切りとして、私たちは庭園が完全に異質ではないこと、むしろ都市空間と微妙な形で調和していることに気づくだろう。庭園の背景に広がる高層ビルは、都市と自然との、ある点での繋がりを感じさせる(浜離宮恩賜庭園、新宿御苑)。
その「ある点」が二つめの要因なのだが、よりミクロな視点に立って考える必要がありそうだ。庭園の構造として、各人が自由に散策できるようになっていることは、マップを見ればわかるだろう。美術館や博物館のように順路は存在せず、どの道を進むかは自由に判断できる。そして、道に沿って様々なオブジェクト(木、池、島、岩、丘)が配置されており、私たちはそれを様々な角度から鑑賞することができる。池に浮かんだ小島は平地から見ればただの松林だが、丘の上から見れば松林の中に家があることに気づく(後楽園)。そして、どの角度から見える光景も調和が取れていて「間違いではない」と感じられる。各オブジェクトは、全方向とは言えないまでも、極めて多方向に自らを表現している*1。要するに、どの方向から見てもそれなりに写真映えしてしまうのだ。日本庭園を歩いていると、つい写真を撮りたくなってしまうのはこの点に由来する。そしてまた、オブジェクトの配置の仕方にも妙がある。庭園の端にある森の中を進むと東屋があり、小さな水たまりに落葉したイチョウが浮かんでいるのを見つける(六義園)。その時、私たちは実際に東屋を、イチョウの葉が浮かぶ水たまりを「発見」したのであり、それは純粋な自然において何かを「発見」したときの感覚と同等のものだ(山奥にある滝、山頂からの眺望)*2。第一の要因における「発見」は、都市空間における異質性が前提になっていたのに対して、ここでの「発見」は自然における自由性が前提となっている。この意味内容の差異が、日本庭園の性格を本質的に説明しているように思われる。
以上で取り上げた二つの要素、多方向への表現、および発見の感覚は、私たちが通常、自然の中である程度の時間をかければ達成できるものだ。険しい山道を進み、その先に美しい渓流を見つけたり(発見)、ひとつの山を北側から眺めるのと南側から眺めるのとで感じ方が変わったりする(多方向への表現)。それらは純粋な自然において「スポット」と呼ばれているものであり、労力や時間をかければ到達できる場所ではあるが、極めて限定されている。日本庭園ではスポットが無数に存在する。おそらく足を運ぶたびに新たなシャッターポイントを見つけることができるだろう。つまり、日本庭園においては、純自然的な感覚は各オブジェクトに凝集され、効率的に知覚できるように秩序立てられていると言うことができる。自然を整理して秩序立てることは、都市形成の根幹に通ずるところがあり、それが庭園と都市との微妙な調和を生み出しているのだ。しかし、その「都市性」はあくまでも自然を管理する方法的な側面に限定されており、内実においては自然的な感覚を保護するものであるために、都市環境との摩擦を解消するまでは至っていない。都市の内にある自然、自然の内にある都市性。自然的感覚の面では異質でありながら、秩序の面では都市と調和する。その奇妙な両義性ゆえに、私たちは日本庭園に惹かれるのだろうか。これは今後も庭園散策を楽しむためのヒントになりそうだ。
ガラス張り
この前ふとガラス張りって綺麗だなと思ったのですが、そもそもガラス張りって窓なのか建物の壁面なのか、どちらなのでしょうか。窓の基本的特質は「通風、採光、眺望」*1である一方で、建物の壁面は通常コンクリートや木材などで出来ていて、外界との接続は完全に遮断されています。ガラス張りは通風の要件はクリアしていないけれども、採光と眺望は満たしています。しかし同時に、建物自体を形づくる壁面でもあります。つまり、ガラス張りは、建物の壁面に窓的な性質を部分的に付与したものだといえるのではないでしょうか。外界との接続を全く遮断されていた壁面に、窓としての機能が備わることで、効果としては窓の延長と捉えることもできます。
窓は「家屋の中で外界と屋内空間との遮断と連続の両義性を担う代表的要素」*2だそうで、ガラス張りにおいても、この両義的な機能は認められます。実際、採光と眺望に関しては、通常の窓よりも効果が拡大されています。通常の窓は、壁面に穿たれた穴であり、光量も眺望もこの範囲に限定されます。しかし、その壁面自体が窓的に変貌しているガラス張りにおいては、光量も眺望可能な範囲も大幅に増大します。つまり、この点に関しては、外界との「遮断」と「連続」の比率が変わっていて、比較的「遮断」の割合が小さくなり「連続」の割合が大きくなっているといえます。
というのは、屋内から外側を見たときの話であって、外側から建物を眺めた際には、より明らかに、内側と外側の境界が希薄になっていることが分かります。例えば、こちらの写真ですが、外界の景色がガラス張りに映りこみ、建物と一体化しているようにすら見えます。

建物自体は無機的なのですが、外界の自然を取り込むことで、有機的な活力が感じられます。外界と内側は、物理的にはガラスによって隔てられているのですが、まさにそのガラスの効果によって、外界と内側の要素が混合された形で表れています。もちろん通常の窓であっても、外界の景色は映りこむのですが、かなり範囲が限定されています。ガラス張りによって、窓的性質が拡張され、窓の基本両義性が視覚的により明瞭な形で表現されるのです。
そして、外界の要素が「都市」である場合は、事はより複雑で面白くなります。ガラス張りには都市が映り込み、建物は都市を内包します。その建物自体、都市の一部を形成していながら、全体の都市景観を内側に描写するという事態が起こります。

いわば部分かつ全体という両義性が生じているのですが、これは窓の基本両義性と別種のものではありません。そもそも、外界と屋内の遮断と連続という定義から考えると(外界とはこの世界のことであり、建物は世界の一部であるので)、部分かつ全体という両義性は、元々の基本両義性をより観念的に捉えたものだといえるでしょう。都市の中のガラス張りは、窓の基本両義性を観念的に変換し、それを視覚的な具体性をもって浮き彫りにしているのです。さらに、ガラス張りであることの重要な意味は、外側から内側が透けて見えることです。建物の中の人間やモノ、つまり都市を構成する小単位までが、複製された都市景観と一体化しています。ガラス張りの建物は、その内側に都市の在り方を閉じ込め、ミクロからマクロまで重層的に描写しているのです。
*1:金田晉「〈窓〉の現象学 : 西欧近世絵画観への素描的考察」以文社『實存主義』第83号、1978年、42頁、URL:https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00024976
*2:同上論文、42頁
【感想】SF小説 その⑦
SFマインドを維持するのは難しい。
金星応答なし(スタニスワフ・レム)
最近レム人気が高まっていると勝手に思っているのですが、合ってますか?まあ、それとは関係なしに随分前から積んでいた本になります。500ページ近くあるのですが、訳が上手いのですらすら読めました。ロシアのツングースカ爆発の原因を宇宙船だったと仮定して、その宇宙船に積まれていた記録を頼りに金星へ調査に向かうお話です。話の流れが分かりやすく、金星で起こる様々な不思議を科学的観点から冷静に処理していく感じも面白いです。レムの処女長編として有名ですが、本人は若気の至り的作品だったと後悔していたそうです。確かに終盤は「人類」や「文明」など大きめのワードが出てきて、若い時に考えそうな事だなとは思いましたが、そんなに悩むことはないよ。
僕がすごいと思ったのは序盤で、ツングースカ爆発から宇宙船の記録が見つかるまでの変遷が説明されている箇所があるのですが、史実とフィクションの繋ぎ目が全然分からないんです。『ソラリス』を読んだ時も思いましたが、レムは虚構を構築するのが上手すぎます。
天の光はすべて星(フレドリック・ブラウン)
いい歳のおじさんが本気で宇宙を目指す話。異様な熱量で周囲を巻き込んでいくタイプなので、実際にいたら普通に面倒なやつですが、その純粋さがどこか愛らしく「やれやれ手伝ってやるか」って思ってしまう気持ちもわからんでもないです。でも歳を取っても夢を追い続ける人ってかっこええなとは思いますね。
マゼラン雲(スタニスワフ・レム)
太陽系外へ探査に乗り出す話。超巨大宇宙船の中に一つの社会を築き、幾世代にわたり宇宙を探査するという壮大な発想に裏打ちされた作品です。上記で取り上げた『金星応答なし』と同様に、この小説は”若い”。理由は二つあって、一つは別知性とのコミュニケーション可能性を説いている点、二つ目は過去の回想などを通して描かれる甘ったるいロマンス要素です。個人的にロマンチックなのは好きなので二つ目の要素はかなり刺さったのですが、硬派なSFを期待するとなんか違う感があるでしょうね。『ソラリス』に代表されるように、レムの基本思想は別知性とのコミュニケーション不可能性であり、それとは正反対の可能性を説いている点が一番異質に感じられるところでしょう。若さゆえの楽観主義、よく言えば夢のある物語です。僕は今まで読んだレム作品の中で一番好きでした。
ここから先は何もない(山田正紀)
あまり内容覚えてないし、原本も手元になくて確認できないのですが、なんか小惑星に人間の骨が見つかって...インターネットの話をしていて...『星を継ぐもの』のオマージュだとかなんとか...凄腕のハッカーがいて...学者とか巻き込んで...事件の真相に近づいていく話なんですよね確か...ネットって怖!って思ったんです読み終わった時...
断片的な記憶なんだ...
スターメイカー(オラフ・ステープルドン)
思弁SFの巨匠ステープルドンの代表作。待望でしたよこれは。文庫化すると聞いて飛び上がりましたね。まあ、めっちゃ喜んで買って結局1年近く寝かせたんですけどね...
面白いですが、読むのにかなり根気がいるのでおすすめはしません。
物語は大体下の図に示した通りです(読み終わったとき謎の活力で作った)
スローターハウス5(カート・ヴォネガット)
意識のタイムトラベルで生涯をいったりきたりする話。主人公のビリーは、ある時は大金持ち、ある時は別の惑星の動物園で見せ物にされ、ある時は第二次大戦下のドイツで死と隣り合わせだったりします。淡々とした語り口で、ブラックユーモアじみた表現が散見されますが、そうした軽い調子で血なまぐさい場面が描かれることで、命が軽んじられ、死の重大さが蔑ろにされていることが伝わってきます。名作なので一度は読んでみるといいかもしれません。
デューン 砂の惑星(フランク・ハーバート)
映画第二部が始まる前に読んでおこうと思いまして。いわゆるスペースオペラで、一発食わされて零落したアトレイデ家が、敵のハルコンネン家を打ち負かすまでの復讐劇です。対立構造が明確なので割と分かりやすく、はまればすらすら読めてしまうと思います。生態学とか、愛と憎悪、生と死など、まあ大長編なので色んなテーマありますよね。
映画楽しみです。
未来のイヴ(ヴィリエ・ド・リラダン)
これは比較的最近読んだので覚えているぞ。恋人のアリシアの外面と内面のギャップに悩んでいるエウォルド卿は、ある日マッドサイエンティストのエジソンの元を訪れます。エジソンは秘密裏にハダリーというアンドロイドを製作しており、エウォルド卿の悩みを聞いた彼は、ハダリーの外見をアリシアそっくりに改造して、”理想の女性”としてエウォルド卿に提供することを申し出る、という流れ。
問題なのは、アリシアの外面と内面のギャップが、ある程度客観的なものなのか、エウォルド卿の主観だけで語られているものなのか、という点だと思います。普通に読み解くと、エウォルド卿の理想が高すぎるだけで、アリシアはまあ普通の女性って感じだと思うのですが、一方でアリシアは「人間離れした美しさ」を備えていて、確かにめちゃくちゃ綺麗な人がギャルっぽい言葉遣いとかしてるとギャップを感じるかもしれないなとは思います。しかし、その美しさが具体的にどんなものなのか、エウォルド卿の理想とする「内面」とは何なのか、そのあたりが曖昧なので終始もやもやした感じでした。最初の方は、おそらくエウォルド卿自身も自分の理想がどんなものか正確には定義できていないのではと思ったのですが、最後の方でアリシアに扮したハダリーがなんか意味不明な電波系の話をしている様子に、彼は満足したようでした。では、外面が綺麗な電波系女子が彼の理想だったということでしょうか...?
人間の内面という流動的なものを、ハダリーという人工物に固定化しようとしていること。それがこの小説の一番不快なポイントです。その人が思うその人の印象、他人から見たその人の印象は、当たり前ですが違っていて、その相互作用でその人の内面は常に変わります。エウォルド卿の気持ち悪さは、彼の持つ一方的な印象が、アリシアの内面として正しいものだと考えていることです。ポジティブな捉え方をすれば、エウォルド卿が恋人の理想の内面を追い求める話ですが、そもそも本質的に「理想の内面」などというものは定義できないために、物語としてまとまったとしても「これ合ってますか?」と思うのでしょうね。
百年文通(伴名練)
コミック百合姫の表紙で連載されていた小説。現代と大正時代がつながる百合物語で、きっとあなたが思うとおりの感動が得られます。僕はちょいちょいうるっときました。通勤中の電車内でな。
優しい気持ちになれるのでおすすめです。百年文通はいいぞ。
きっと他にもSF読んだだろうに、悲しいかな、記憶を失っている...










