ガラス張り

 この前ふとガラス張りって綺麗だなと思ったのですが、そもそもガラス張りって窓なのか建物の壁面なのか、どちらなのでしょうか。窓の基本的特質は「通風、採光、眺望」*1である一方で、建物の壁面は通常コンクリートや木材などで出来ていて、外界との接続は完全に遮断されています。ガラス張りは通風の要件はクリアしていないけれども、採光と眺望は満たしています。しかし同時に、建物自体を形づくる壁面でもあります。つまり、ガラス張りは、建物の壁面に窓的な性質を部分的に付与したものだといえるのではないでしょうか。外界との接続を全く遮断されていた壁面に、窓としての機能が備わることで、効果としては窓の延長と捉えることもできます。

 窓は「家屋の中で外界と屋内空間との遮断と連続の両義性を担う代表的要素」*2だそうで、ガラス張りにおいても、この両義的な機能は認められます。実際、採光と眺望に関しては、通常の窓よりも効果が拡大されています。通常の窓は、壁面に穿たれた穴であり、光量も眺望もこの範囲に限定されます。しかし、その壁面自体が窓的に変貌しているガラス張りにおいては、光量も眺望可能な範囲も大幅に増大します。つまり、この点に関しては、外界との「遮断」と「連続」の比率が変わっていて、比較的「遮断」の割合が小さくなり「連続」の割合が大きくなっているといえます。

 というのは、屋内から外側を見たときの話であって、外側から建物を眺めた際には、より明らかに、内側と外側の境界が希薄になっていることが分かります。例えば、こちらの写真ですが、外界の景色がガラス張りに映りこみ、建物と一体化しているようにすら見えます。

横浜国立大学附属図書館

建物自体は無機的なのですが、外界の自然を取り込むことで、有機的な活力が感じられます。外界と内側は、物理的にはガラスによって隔てられているのですが、まさにそのガラスの効果によって、外界と内側の要素が混合された形で表れています。もちろん通常の窓であっても、外界の景色は映りこむのですが、かなり範囲が限定されています。ガラス張りによって、窓的性質が拡張され、窓の基本両義性が視覚的により明瞭な形で表現されるのです。

 そして、外界の要素が「都市」である場合は、事はより複雑で面白くなります。ガラス張りには都市が映り込み、建物は都市を内包します。その建物自体、都市の一部を形成していながら、全体の都市景観を内側に描写するという事態が起こります。

横浜駅西口

いわば部分かつ全体という両義性が生じているのですが、これは窓の基本両義性と別種のものではありません。そもそも、外界と屋内の遮断と連続という定義から考えると(外界とはこの世界のことであり、建物は世界の一部であるので)、部分かつ全体という両義性は、元々の基本両義性をより観念的に捉えたものだといえるでしょう。都市の中のガラス張りは、窓の基本両義性を観念的に変換し、それを視覚的な具体性をもって浮き彫りにしているのです。さらに、ガラス張りであることの重要な意味は、外側から内側が透けて見えることです。建物の中の人間やモノ、つまり都市を構成する小単位までが、複製された都市景観と一体化しています。ガラス張りの建物は、その内側に都市の在り方を閉じ込め、ミクロからマクロまで重層的に描写しているのです。

 

*1:金田晉「〈窓〉の現象学 : 西欧近世絵画観への素描的考察」以文社『實存主義』第83号、1978年、42頁、URL:https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00024976

*2:同上論文、42頁

【感想】SF小説 その⑦

 

SFマインドを維持するのは難しい。

 

金星応答なし(スタニスワフ・レム

最近レム人気が高まっていると勝手に思っているのですが、合ってますか?まあ、それとは関係なしに随分前から積んでいた本になります。500ページ近くあるのですが、訳が上手いのですらすら読めました。ロシアのツングースカ爆発の原因を宇宙船だったと仮定して、その宇宙船に積まれていた記録を頼りに金星へ調査に向かうお話です。話の流れが分かりやすく、金星で起こる様々な不思議を科学的観点から冷静に処理していく感じも面白いです。レムの処女長編として有名ですが、本人は若気の至り的作品だったと後悔していたそうです。確かに終盤は「人類」や「文明」など大きめのワードが出てきて、若い時に考えそうな事だなとは思いましたが、そんなに悩むことはないよ。

僕がすごいと思ったのは序盤で、ツングースカ爆発から宇宙船の記録が見つかるまでの変遷が説明されている箇所があるのですが、史実とフィクションの繋ぎ目が全然分からないんです。『ソラリス』を読んだ時も思いましたが、レムは虚構を構築するのが上手すぎます。

 

天の光はすべて星(フレドリック・ブラウン

いい歳のおじさんが本気で宇宙を目指す話。異様な熱量で周囲を巻き込んでいくタイプなので、実際にいたら普通に面倒なやつですが、その純粋さがどこか愛らしく「やれやれ手伝ってやるか」って思ってしまう気持ちもわからんでもないです。でも歳を取っても夢を追い続ける人ってかっこええなとは思いますね。

 

マゼラン雲(スタニスワフ・レム

太陽系外へ探査に乗り出す話。超巨大宇宙船の中に一つの社会を築き、幾世代にわたり宇宙を探査するという壮大な発想に裏打ちされた作品です。上記で取り上げた『金星応答なし』と同様に、この小説は”若い”。理由は二つあって、一つは別知性とのコミュニケーション可能性を説いている点、二つ目は過去の回想などを通して描かれる甘ったるいロマンス要素です。個人的にロマンチックなのは好きなので二つ目の要素はかなり刺さったのですが、硬派なSFを期待するとなんか違う感があるでしょうね。『ソラリス』に代表されるように、レムの基本思想は別知性とのコミュニケーション不可能性であり、それとは正反対の可能性を説いている点が一番異質に感じられるところでしょう。若さゆえの楽観主義、よく言えば夢のある物語です。僕は今まで読んだレム作品の中で一番好きでした。

 

ここから先は何もない(山田正紀

あまり内容覚えてないし、原本も手元になくて確認できないのですが、なんか小惑星に人間の骨が見つかって...インターネットの話をしていて...『星を継ぐもの』のオマージュだとかなんとか...凄腕のハッカーがいて...学者とか巻き込んで...事件の真相に近づいていく話なんですよね確か...ネットって怖!って思ったんです読み終わった時...

断片的な記憶なんだ...

 

スターメイカー(オラフ・ステープルドン

思弁SFの巨匠ステープルドンの代表作。待望でしたよこれは。文庫化すると聞いて飛び上がりましたね。まあ、めっちゃ喜んで買って結局1年近く寝かせたんですけどね...

面白いですが、読むのにかなり根気がいるのでおすすめはしません。

物語は大体下の図に示した通りです(読み終わったとき謎の活力で作った)

 

スローターハウス5カート・ヴォネガット

意識のタイムトラベルで生涯をいったりきたりする話。主人公のビリーは、ある時は大金持ち、ある時は別の惑星の動物園で見せ物にされ、ある時は第二次大戦下のドイツで死と隣り合わせだったりします。淡々とした語り口で、ブラックユーモアじみた表現が散見されますが、そうした軽い調子で血なまぐさい場面が描かれることで、命が軽んじられ、死の重大さが蔑ろにされていることが伝わってきます。名作なので一度は読んでみるといいかもしれません。

 

デューン 砂の惑星フランク・ハーバート

映画第二部が始まる前に読んでおこうと思いまして。いわゆるスペースオペラで、一発食わされて零落したアトレイデ家が、敵のハルコンネン家を打ち負かすまでの復讐劇です。対立構造が明確なので割と分かりやすく、はまればすらすら読めてしまうと思います。生態学とか、愛と憎悪、生と死など、まあ大長編なので色んなテーマありますよね。

映画楽しみです。

 

未来のイヴヴィリエ・ド・リラダン

これは比較的最近読んだので覚えているぞ。恋人のアリシアの外面と内面のギャップに悩んでいるエウォルド卿は、ある日マッドサイエンティストエジソンの元を訪れます。エジソンは秘密裏にハダリーというアンドロイドを製作しており、エウォルド卿の悩みを聞いた彼は、ハダリーの外見をアリシアそっくりに改造して、”理想の女性”としてエウォルド卿に提供することを申し出る、という流れ。

問題なのは、アリシアの外面と内面のギャップが、ある程度客観的なものなのか、エウォルド卿の主観だけで語られているものなのか、という点だと思います。普通に読み解くと、エウォルド卿の理想が高すぎるだけで、アリシアはまあ普通の女性って感じだと思うのですが、一方でアリシアは「人間離れした美しさ」を備えていて、確かにめちゃくちゃ綺麗な人がギャルっぽい言葉遣いとかしてるとギャップを感じるかもしれないなとは思います。しかし、その美しさが具体的にどんなものなのか、エウォルド卿の理想とする「内面」とは何なのか、そのあたりが曖昧なので終始もやもやした感じでした。最初の方は、おそらくエウォルド卿自身も自分の理想がどんなものか正確には定義できていないのではと思ったのですが、最後の方でアリシアに扮したハダリーがなんか意味不明な電波系の話をしている様子に、彼は満足したようでした。では、外面が綺麗な電波系女子が彼の理想だったということでしょうか...?

人間の内面という流動的なものを、ハダリーという人工物に固定化しようとしていること。それがこの小説の一番不快なポイントです。その人が思うその人の印象、他人から見たその人の印象は、当たり前ですが違っていて、その相互作用でその人の内面は常に変わります。エウォルド卿の気持ち悪さは、彼の持つ一方的な印象が、アリシアの内面として正しいものだと考えていることです。ポジティブな捉え方をすれば、エウォルド卿が恋人の理想の内面を追い求める話ですが、そもそも本質的に「理想の内面」などというものは定義できないために、物語としてまとまったとしても「これ合ってますか?」と思うのでしょうね。

 

百年文通(伴名練)

コミック百合姫の表紙で連載されていた小説。現代と大正時代がつながる百合物語で、きっとあなたが思うとおりの感動が得られます。僕はちょいちょいうるっときました。通勤中の電車内でな。

優しい気持ちになれるのでおすすめです。百年文通はいいぞ。

 

きっと他にもSF読んだだろうに、悲しいかな、記憶を失っている...

 

【感想】灯台へ

 

すでに世界文学として評価されている作品に対して、あれこれと批評じみたことを書くことに意味があるとは思えないが、自分が受けた印象が作品の真髄に触れているのか、それとも表面をさらっているだけなのかを整理するためにも、感想をまとめておくことは必要だと考えている。印象が言葉として浮かび上がる際に、内奥に渦巻くイメージとの相互連関において、単に文字を並列させることで容易に表現できたと思うこともあれば、イメージとの絶え間ない反復運動を通して、やっとのことで印象再現が叶うこともある。この再現難度の計測とでも呼べそうな思考過程を経ることで、ある作品に対する印象の深さ、複雑さ、ユニークさが、多少ではあるが明確に感じられるようになる。

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』は、まさに反復運動を通して再現された印象の塊である。ただし、ここで言葉は、ひとりの人間の内側だけで生まれたものでなく、外界・自然との間断なき反復を通して発せられる。外界・自然という第三の要素を媒介することで、何でもない日常の印象は、ある種幻想的なまでに広がり、確固たるユニークさを獲得する。それでいて宙に浮かんでいるわけではなく、表現の中核はしっかりと現実に根を下ろしている。このリアリズムの極北的表現は、哲学者を夫に持つラムジー夫人を中心に回っている。夫のラムジー氏、息子のジェイムズ、夫の友人のバンクスとタンズリー、画家を志すリリーなどが登場し、視点は目まぐるしく変わっていくのだが、彼らを繋ぎとめているのはラムジー夫人であり、彼女の印象再現力(作中では『見方』と呼ばれている)である。一見、彼らは各々が孤独であるように見える。それは一人ひとりの独自の性格、思考、悩みなどによって、外界からの断片的な情報にバイアスがかけられ、螺旋を描きながら心の奥深くに沈んでいくためである。しかし、鳥瞰すると、その断片的な情報の交換と、深奥への潜水の振れ幅をもって、彼らの意識はまるで波のように繋がっていることが分かる。ラムジー夫人の驚異的な再現力と、その魅力により周囲の人間が繋がっている様子は、以下の表現において明確である。

今やすべての蠟燭に火がともされると、テーブルの両側に並んだ顔が、その灯りのせいで近づいたように感じられ、夕暮れの光の中にいた時と違って、テーブルを囲む人々の間にある種の一体感が生まれた。というのも夜が窓ガラスの向こうに締め出されるとともに、その窓は外の世界を正確に映し出すというより、ゆらゆらと不思議に波立つような雰囲気を描き出していたからだ。

これほどまでに瞬間の全貌を捉えた表現はめったに見ない。再現された印象は読み手の記憶を掘り起こし、色褪せた体験に生気を吹き込む。命を取り戻した体験は、その後、彼の脳裏にはり付き、任意に何度でも動かすことのできる再現可能性を持つことになる。(ともあれ、このシーン、第一部十七節の晩餐会の描写は本当にすごい。夕方から夜に変わるわずかの間の妙に浮足立つような高揚感と、食事会における各種の心理過程、雰囲気の変化などが恐るべきリアリティをもって描かれている。そのため読み込みすぎると気が滅入る箇所でもある)

しかし、この在り方は第二部において突如中断される。時間は”自然”の尺度で進んでいく。皆が集まる穏やかな日常は、窓から入るすきま風によって瞬時に消え失せる。自然という絶対無情の只中にありながら、日々は美しく平穏に過ぎ去っていく。ラムジー氏の家は荒廃し、かつて皆が集ったテーブルは埃にまみれ、優雅に散歩した庭は背の高い雑草が繁茂している。家の管理を任された老婆が登場するが、彼女は家を守ることの意味を見失いかけている。自然の視点においては、人間の趨勢など取るに足らず、ラムジー夫人の死もパーレン付きの三行の文章で綴られるのみである。時おり人間の話も出てくるが、固有名詞は与えられず、大枠で”人間”と括られている。彼らはラムジー夫人のように、自然との対話・反復運動を試みる人々であり、自然はコンタクトを取ろうとする彼らを一応紹介しているという感じである。過ぎ去っていく時の中、なんかこんな人間もいた...といった風に。

そして、第三部、当時集まった人々がまた島に戻ってくる(管理人の老婆は、人手を集めて家を大掃除した)。この章において、ラムジー夫人の死がどれほど大きいものだったかが身に染みて感じられる。夫のラムジー氏は悲劇の男やもめとなり、息子のジェイムズは父親に対する憎しみにとりつかれていて(第一部においては幼少期特有の鋭い感性を有していたが、それはラムジー夫人との交流があってこそだった。彼女が死に、ラムジー氏の無骨な刃にさらされるままになり、即物的で視野の狭い人間に成り果てた)、リリーは画家にはなれず、日々をただ過ごしているだけである。物語の人物配置に焦点をおくならば、彼女はラムジー夫人のネガであり、行動も思考も夫人の言動を裏面から通り抜けていくように描かれている。しかし、対立するがゆえに近しい点もあり、印象再現においては、夫人と同じ方面を向いているように見える(しかし、夫人と肩を並べるほどではなく、リリーはあくまで近視眼的心理が専門である)。いわばリリーは、対立構造を通してラムジー夫人に依存していたのであり、夫人の在り方を鏡越しに解釈することで足場を固めていたのだろう。リリーが在りし日の夫人の姿を思い浮かべながら涙する場面がある。彼女にとって、夫人の死は存在を揺るがす大きな喪失だったのである。ラムジー夫人の不在によって、生き生きとした光景は失われ、どこか薄靄がかかったような非現実感が大きな割合を占めている。しかし、最終的に、ジェイムズは父のラムジー氏と和解のしるしを見出すし(完全とは言えないが)、リリーもラムジー夫人の影から脱却して自分の在り方を見つける。このぼんやりとしたハッピーエンドは、波のように続く意識の流れを、ちょうど波頭の部分で区切ったような形である。これによって、彼らが物語の枠内にとどまることなく、一人の人間として人生を歩んでいくイメージが広がっていくのである。

 

【感想】影をなくした男

 

19世紀あたりに書かれた古典。お金に困った男が、悪魔(っぽいもの)と契約して、大量の金銭と引き換えに自分の影を渡してしまい、苦難の人生を歩むという物語である。

このような寓意的な作品を読んだ後は、結局分かったような分からないような感じで、妙なストレスが残ることが多い。どうとでも解釈できそうな、それでいて何か一つの重要な意味を孕んでいるようにも思える。ストーリーは至って直線的で理解しやすいが、それゆえに登場人物のあり方や会話内容、細部の表現などに、複雑で深遠な意味が内包されているのではないかと疑ってしまう。読んでいる最中、取りこぼしがないか不安になり、余計細部に気を取られる。そうした緊張感が、読後のストレスを生み出している。このような解釈多様性がもたらすストレスは、ある一義的な意味内容を要求する。『影をなくした男』における”影”の意味は、波乱の人生遍歴を経たシャミッソー自身に求められた。つまり、彼が革命や戦争に翻弄され失ってしまった”祖国”として読み取られたのである。これが世間的な解釈として広まっている。

しかし、ここで解説の冒頭における以下の文章に注目したい。

心理学者によると影の記憶は成長の過程につきそっているのだそうだ。ある齢ごろになってようやく影の意味合いに気づく。つまりは潜在的な自我に気がつき「私という他人」を発見する。

ここから出発すると、”影”のより一般的な解釈にたどり着ける。『「私という他人」を発見する』とは、自分も他者と同様に、広い人間社会における構成員の一人にすぎないことを理解するということである。”影"は理解を促すトリガーとなるものであり、それを失うことは、社会的な適合能力の根幹を揺るがす事態となる。自我に気づけない人間は、他者ひいては世界との境界が定まらず、社会において過剰に自我を晒してしまい(具体的には、常識の欠如・不安定な距離感・振る舞いの不調などに現れるだろう)、爪弾きにされるのではなかろうか。本作の主人公シュレミールは、”影”を失くしてから、会う人に悉く拒絶される。”影”を持たないがゆえに、彼は社会不適合者となってしまったのである。

この物語は一人称で書かれている。気を付けたいのは、彼の一人称は大部分が主観から成り立っているため(自我に気づけないので客観視が困難)、あまり信用できないということである。作中には描かれていないが、シュレミールが不適合ぶりを発揮した場面もあったのではなかろうか。まあこれは記述外への言及なので、明らかに拡大解釈である。

【感想】シダネルとマルタン展

 

先日、SOMPO美術館で開催されている『シダネルとマルタン展』に行ってきたので感想など。

www.sompo-museum.org

シダネルとマルタンは、同時期に活躍したフランスの画家で、絵画史においては印象派の後期に分類されるらしい。美術のことはあまり詳しくないが、印象派の絵画は風景画が多く、単純に綺麗だなという気持ちで見れるので親しみやすい。こちら二人の作品も風景画が多く、綺麗な絵を見て憩いの時間を過ごせたという満足感はあった。

しかし、同時に思ったのは、全体を通して幻想性が強いということである。描かれるものの輪郭は曖昧で、人物が配置されていても顔のパーツが無く、表情は読み取れない。(印象派の作品にはありがちかもしれない)こうした特徴を持つ絵は、ぱっと見では良いのだが、見つめていると、ただ絵の具を塗り重ねたものにすぎないと感じられる。人や物がそれ自体として受け取れなくなり、ただの”絵”であることを痛感させられる。

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「花咲く木々」(1902年)アンリ・ル・シダネル

対して、フェルメールの絵はそうした特徴とは真逆にある。直近で東京都美術館の展覧会に行ったので引き合いに出してしまうのだが、『窓辺で手紙を読む女』を見てみると、この絵が確固たる現実に立脚していることがよく分かる。中央の女性の表情を起点として、皺の寄ったカーテン、放たれた窓から差し込んでいる光など、まさにその時その瞬間がそのまま切り取られているかのような印象を受ける。見つめていると、窓から入り込んでくる風に手紙がはためく音、女性の緊張した息遣いまでが聞こえてくる気さえする。もちろん、これが絵であることは頭では分かっているのだが、知覚としては、絵を見ているというよりは、描かれたもの自体を見ている。それらは、絵となり額縁にはめられなければ動き続けていただろうし、その生の実際に伴う力動性は絵となってからも失われていない。

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「窓辺で手紙を読む女」(1657-1659年)ヨハネス・フェルメール

シダネルやマルタンの絵は、そうした力動性を脱却した生の上澄み部分を基礎においているため、現実が醸し出すくどさとは無縁である。そのために、夢や記憶の中のような、個人の心象風景のような、幻想的な作風に仕上がっている。

しかし、その作風を人物のみに焦点を当てた形で適用すると、かなりグロテスクな知覚を生む。マルタンの人物画『青い服を着た少女』は、その曖昧さゆえに、はじめは柔らかな印象を受けるが、見続けていると細かい点があらわになり、顔面がぽろぽろと剝がれていくような恐ろしい感覚を引き起こす。だが、この見え方によって、生の実際からかけ隔たった強烈な幻想性を備えていることが直感的に理解できるのである。

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「青い服を着た少女」(1901-1910年頃)アンリ・マルタン

 

怖かったけど、なんか欲しくなって「青い服を着た少女」のポストカード買ったわ。

 

【感想】A.I. Artificial Intelligence

 

いつか感想を書きたいと思っていた映画。少し前に見返したので、あまり長くならない程度にまとめておきたい。

A.I. Artificial Intelligence (字幕版)

A.I. Artificial Intelligence (字幕版)

  • ハーレイ ジョエル オスメント
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近未来、温暖化が進んで氷が融け、町が海に沈んでしまった世界を舞台としたSF作品。人口抑制策が取られ、妊娠に許可制が設けられる一方で、技術は飛躍的に進歩しており、社会・経済活動は主にロボットが担っている。許可が得られず、子供を持てない夫婦をターゲットして開発された子供型ロボット『デイビッド』は、”愛”をインプットできる機能を持ち、テスト運用としてスウィントン夫妻の元に送られる。

分かりやすく”愛”をテーマとしており、デイビッドが人間になれると信じてブルー・フェアリーを探し求める姿は涙ぐましく、感情移入しやすいストーリーである。最終的にデイビッドの愛は受け入れられるが、この物語において、愛について最も考えさせられるのは、モニカがデイビッドを森の中に置いていく次のシーンである。

デイビッド「ピノキオみたいに本物の子供になるから」

モニカ「おとぎ話よ!」

デイビッド「でも人間になった」

モニカ「違うのよ!あなたは機械よ!」

デイビッドの無垢な愛情は、モニカの冷たい一言によって拒絶される。なんとも可哀想なシーンだが、このやり取りから愛についての様々な想念が湧いてくる。人間の持つ愛と機械の持つ愛は同じだろうかという問いから始まり、愛とは普遍的なものなのか、それとも個体ごとにユニークなもので、各個体は個別の愛の尺度をもって出来事を測っているにすぎないのか、という哲学的な思索にまで発展していく。人間と機械という明確な差異をもって(ここにSFである意味がある)”拒絶”が描かれることによって、見る者は本質へと導かれる。その意味でこの作品は『拒絶された愛の物語』*1なのである。

オールディスの原作では、デイビッドは自分と同じ筐体が並んでいるのを見て、自分は特別ではないと知って絶望する場面で終わる。対して、映画では2000年後の世界を設定し(無理矢理な感じもするが)、デイビッドは母親の愛情を手に入れて終わる。スピルバーグの優しさが表れた良いラストだと思う。物語はハッピーエンドがいいよね。

補足

愛の話なんかはそれとして、デイビッドに足りなかったのは、人間的なやり取りへの適応力だと思う。モニカの髪を切ろうとしたことも(ここで切った髪がハッピーエンドへの伏線となっており、デイビッドの失敗すらも包み込むスピルバーグの無限の優しさを感じる)、マーティンをプールに沈めてしまったことも、その場を最低リスクで切り抜ける力があれば回避できたことなんじゃなかろうか。

散歩と冒険

 

近頃よく長距離散歩をしていて、とりあえず方角だけ決めて大体二時間ほど、どこかの駅に着くまで歩くなどしている。休日に時間が有り余るために始めたことだが、次第に趣味として定着しつつある。周りは山ばかりなので、二時間歩くとなると、坂を登ったり下りたりを何度も繰り返すことになる。足は悲鳴を上げるし、冬であっても汗だくになってしまうこともある。なのにどうして歩いてしまうのか。運動になるからという理由もあるが、それ以上に魅惑的な何かが散歩にはあるのだ。それが何なのかいつもぼんやりと考えていたのだが、先日読んだ『ジンメル・エッセイ集』にヒントを見つけた気がした。以下、ジンメルの「冒険」の考え方を基礎として、長距離散歩における心的運動のプロセスをまとめていきたい。

自生活圏からの逸脱

日常生活を送るための場所は狭い範囲に限定されており、道のどちら側を通るかまで決まっていることが多い。散歩において、自生活圏に留まるのであれば、冒険であるとはいえないだろう。

実のところ冒険の形は、思い切り大ざっぱにいって、生の関連から転がり落ちることである。

冒険であるためには、まず通常の生活プロセスから逸脱する必要があり、長距離散歩がそれを可能とする。決められた方角に進む時、迷いなく進めるまでが自生活圏であり、逸脱を目前に控えると躊躇いが生まれる。しかし、その逸脱が確かであればあるほど、躊躇いと同時に心惹かれる気持ちが湧いてくる。この段階においては、逸脱すること自体に高揚していて、目に映る景色は単純に新鮮なものとして感じられる。

侵略と受容

高揚感はさておきながら、自生活圏の外側、つまり他生活圏においては、自分のあずかり知らない生のあり方を目にすることになる。目の前に広がる未知の生活の海を、微妙な緊張感を持ちながら意識は進みゆく。この緊張感は、確かさと不確かさの交錯ゆえに生まれるものである。おそらくどこかの駅に着いて、いつかは帰れるだろうという確かさと、いま自分がどこにいるのか全く分かっていない不確かさが奇妙に統一している。

それは、生の関連から転がり落ちて、......まさしく転落というこの運動を通じて、どうやらまた、生の関連の中へ落ち込むのだ。

自生活圏からの逸脱が生の不確かさを生むが、まさにそれによって、より上位の生の確かさに包まれていることを実感する。そういう次第で、長距離散歩においては、地図を使わない方がより冒険的である。

他生活圏を突き進むのは侵略者のふるまいであり、普段関与しない生の要素を片っ端からもぎ取っていく過程である。そして、自分にとっての他生活圏を自生活圏として利用している人々の営みを見るとき、僅かばかりの反感と驚きを覚えながら、そのあり方を受容する。微妙な緊張感をまといながら、侵略と受容が同時共存している状態が、この段階の特徴である。まさにこの状態が、長距離散歩のどこか夢のような魅惑を作り出している。

他生活圏の部分的自生活圏化

長距離散歩の最終段階では、受容された他生活圏の要素が自生活圏に組み込まれる。それは完全ではなく部分的にすぎないが、ある種徹底された形をとる。「行ったことがある」という認識は、自分がそこに居たことを完璧に反復せずとも成り立つ。例えば、とある道路沿いを歩いた後、電車に乗って来た方に戻る時、車窓からその道路が見えたなら、「先ほど通った」道だと思える。その時点で確実に知っていることは、道路を歩いた時に見えたものだけであり、車窓からは初めて道路を眺めるはずである。しかし、奇妙なことに、車窓に映る道路と自分が歩いた道路が同じであることは疑いようがない。つまり、新たな要素が自生活圏に組み込まれる際には、主観に限定された形ではなく、客観的なあり方も含めて、一つの現実として包括的に結晶する。この段階で「夢のよう」な魅惑は消えてしまうが、生の要素の具体的内容についてはまだ曖昧な部分が多いために、現実としては不完全であり、一時的・部分的であるにとどまる。

気を付けたいのは、自生活圏にほど近い領域を歩かないことである。その場所は、いま述べた次第で本質的には自生活圏なのである。そこを散歩することは、既に出来上がった現実を別角度から眺める行為にすぎず、普段見えなかったものが見えたという感動しか得られない。

補足:自生活圏の他生活圏化

何度も繰り返し同じ場所を訪れることで、生の要素の具体的内容が補完され、現実としての完成度が高まり、自生活圏として定着する。その逆に、行ったことがある(もしくは住んでいた)場所を久しく訪れないでいると、自生活圏は徐々に他生活圏化していく。結局のところ、一つの場所が自生活圏なのか他生活圏なのかは、生の要素についてどれだけ把握できているかによる。他生活圏化においては、圏内の生の要素に長い時間関与していないために自生活圏と感じられるほどの把握量が維持できなくなっていく(この過程では、生の要素の具体的内容は比較的に維持されるが、生のあり方・営みと呼べるものが曖昧になる)。そして、久々にそこを訪れた時、ある種の哀感、懐かしさを覚えるのは、一つの場所として確かな形を持ちながらも、それを構成している生の要素の実態がぼやけていく、その悲劇性ゆえである。

参考文献

おもろいからみんな読んでや~(現時点、中古で約4000円)。

 

長距離散歩は楽しいよ。暇人の奇行と憐れむ勿れ。