散歩と冒険

 

近頃よく長距離散歩をしていて、とりあえず方角だけ決めて大体二時間ほど、どこかの駅に着くまで歩くなどしている。休日に時間が有り余るために始めたことだが、次第に趣味として定着しつつある。周りは山ばかりなので、二時間歩くとなると、坂を登ったり下りたりを何度も繰り返すことになる。足は悲鳴を上げるし、冬であっても汗だくになってしまうこともある。なのにどうして歩いてしまうのか。運動になるからという理由もあるが、それ以上に魅惑的な何かが散歩にはあるのだ。それが何なのかいつもぼんやりと考えていたのだが、先日読んだ『ジンメル・エッセイ集』にヒントを見つけた気がした。以下、ジンメルの「冒険」の考え方を基礎として、長距離散歩における心的運動のプロセスをまとめていきたい。

自生活圏からの逸脱

日常生活を送るための場所は狭い範囲に限定されており、道のどちら側を通るかまで決まっていることが多い。散歩において、自生活圏に留まるのであれば、冒険であるとはいえないだろう。

実のところ冒険の形は、思い切り大ざっぱにいって、生の関連から転がり落ちることである。

冒険であるためには、まず通常の生活プロセスから逸脱する必要があり、長距離散歩がそれを可能とする。決められた方角に進む時、迷いなく進めるまでが自生活圏であり、逸脱を目前に控えると躊躇いが生まれる。しかし、その逸脱が確かであればあるほど、躊躇いと同時に心惹かれる気持ちが湧いてくる。この段階においては、逸脱すること自体に高揚していて、目に映る景色は単純に新鮮なものとして感じられる。

侵略と受容

高揚感はさておきながら、自生活圏の外側、つまり他生活圏においては、自分のあずかり知らない生のあり方を目にすることになる。目の前に広がる未知の生活の海を、微妙な緊張感を持ちながら意識は進みゆく。この緊張感は、確かさと不確かさの交錯ゆえに生まれるものである。おそらくどこかの駅に着いて、いつかは帰れるだろうという確かさと、いま自分がどこにいるのか全く分かっていない不確かさが奇妙に統一している。

それは、生の関連から転がり落ちて、......まさしく転落というこの運動を通じて、どうやらまた、生の関連の中へ落ち込むのだ。

自生活圏からの逸脱が生の不確かさを生むが、まさにそれによって、より上位の生の確かさに包まれていることを実感する。そういう次第で、長距離散歩においては、地図を使わない方がより冒険的である。

他生活圏を突き進むのは侵略者のふるまいであり、普段関与しない生の要素を片っ端からもぎ取っていく過程である。そして、自分にとっての他生活圏を自生活圏として利用している人々の営みを見るとき、僅かばかりの反感と驚きを覚えながら、そのあり方を受容する。微妙な緊張感をまといながら、侵略と受容が同時共存している状態が、この段階の特徴である。まさにこの状態が、長距離散歩のどこか夢のような魅惑を作り出している。

他生活圏の部分的自生活圏化

長距離散歩の最終段階では、受容された他生活圏の要素が自生活圏に組み込まれる。それは完全ではなく部分的にすぎないが、ある種徹底された形をとる。「行ったことがある」という認識は、自分がそこに居たことを完璧に反復せずとも成り立つ。例えば、とある道路沿いを歩いた後、電車に乗って来た方に戻る時、車窓からその道路が見えたなら、「先ほど通った」道だと思える。その時点で確実に知っていることは、道路を歩いた時に見えたものだけであり、車窓からは初めて道路を眺めるはずである。しかし、奇妙なことに、車窓に映る道路と自分が歩いた道路が同じであることは疑いようがない。つまり、新たな要素が自生活圏に組み込まれる際には、主観に限定された形ではなく、客観的なあり方も含めて、一つの現実として包括的に結晶する。この段階で「夢のよう」な魅惑は消えてしまうが、生の要素の具体的内容についてはまだ曖昧な部分が多いために、現実としては不完全であり、一時的・部分的であるにとどまる。

気を付けたいのは、自生活圏にほど近い領域を歩かないことである。その場所は、いま述べた次第で本質的には自生活圏なのである。そこを散歩することは、既に出来上がった現実を別角度から眺める行為にすぎず、普段見えなかったものが見えたという感動しか得られない。

補足:自生活圏の他生活圏化

何度も繰り返し同じ場所を訪れることで、生の要素の具体的内容が補完され、現実としての完成度が高まり、自生活圏として定着する。その逆に、行ったことがある(もしくは住んでいた)場所を久しく訪れないでいると、自生活圏は徐々に他生活圏化していく。結局のところ、一つの場所が自生活圏なのか他生活圏なのかは、生の要素についてどれだけ把握できているかによる。他生活圏化においては、圏内の生の要素に長い時間関与していないために自生活圏と感じられるほどの把握量が維持できなくなっていく(この過程では、生の要素の具体的内容は比較的に維持されるが、生のあり方・営みと呼べるものが曖昧になる)。そして、久々にそこを訪れた時、ある種の哀感、懐かしさを覚えるのは、一つの場所として確かな形を持ちながらも、それを構成している生の要素の実態がぼやけていく、その悲劇性ゆえである。

参考文献

おもろいからみんな読んでや~(現時点、中古で約4000円)。

 

長距離散歩は楽しいよ。暇人の奇行と憐れむ勿れ。