【感想】影をなくした男

 

19世紀あたりに書かれた古典。お金に困った男が、悪魔(っぽいもの)と契約して、大量の金銭と引き換えに自分の影を渡してしまい、苦難の人生を歩むという物語である。

このような寓意的な作品を読んだ後は、結局分かったような分からないような感じで、妙なストレスが残ることが多い。どうとでも解釈できそうな、それでいて何か一つの重要な意味を孕んでいるようにも思える。ストーリーは至って直線的で理解しやすいが、それゆえに登場人物のあり方や会話内容、細部の表現などに、複雑で深遠な意味が内包されているのではないかと疑ってしまう。読んでいる最中、取りこぼしがないか不安になり、余計細部に気を取られる。そうした緊張感が、読後のストレスを生み出している。このような解釈多様性がもたらすストレスは、ある一義的な意味内容を要求する。『影をなくした男』における”影”の意味は、波乱の人生遍歴を経たシャミッソー自身に求められた。つまり、彼が革命や戦争に翻弄され失ってしまった”祖国”として読み取られたのである。これが世間的な解釈として広まっている。

しかし、ここで解説の冒頭における以下の文章に注目したい。

心理学者によると影の記憶は成長の過程につきそっているのだそうだ。ある齢ごろになってようやく影の意味合いに気づく。つまりは潜在的な自我に気がつき「私という他人」を発見する。

ここから出発すると、”影”のより一般的な解釈にたどり着ける。『「私という他人」を発見する』とは、自分も他者と同様に、広い人間社会における構成員の一人にすぎないことを理解するということである。”影"は理解を促すトリガーとなるものであり、それを失うことは、社会的な適合能力の根幹を揺るがす事態となる。自我に気づけない人間は、他者ひいては世界との境界が定まらず、社会において過剰に自我を晒してしまい(具体的には、常識の欠如・不安定な距離感・振る舞いの不調などに現れるだろう)、爪弾きにされるのではなかろうか。本作の主人公シュレミールは、”影”を失くしてから、会う人に悉く拒絶される。”影”を持たないがゆえに、彼は社会不適合者となってしまったのである。

この物語は一人称で書かれている。気を付けたいのは、彼の一人称は大部分が主観から成り立っているため(自我に気づけないので客観視が困難)、あまり信用できないということである。作中には描かれていないが、シュレミールが不適合ぶりを発揮した場面もあったのではなかろうか。まあこれは記述外への言及なので、明らかに拡大解釈である。