【感想】灯台へ

 

すでに世界文学として評価されている作品に対して、あれこれと批評じみたことを書くことに意味があるとは思えないが、自分が受けた印象が作品の真髄に触れているのか、それとも表面をさらっているだけなのかを整理するためにも、感想をまとめておくことは必要だと考えている。印象が言葉として浮かび上がる際に、内奥に渦巻くイメージとの相互連関において、単に文字を並列させることで容易に表現できたと思うこともあれば、イメージとの絶え間ない反復運動を通して、やっとのことで印象再現が叶うこともある。この再現難度の計測とでも呼べそうな思考過程を経ることで、ある作品に対する印象の深さ、複雑さ、ユニークさが、多少ではあるが明確に感じられるようになる。

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』は、まさに反復運動を通して再現された印象の塊である。ただし、ここで言葉は、ひとりの人間の内側だけで生まれたものでなく、外界・自然との間断なき反復を通して発せられる。外界・自然という第三の要素を媒介することで、何でもない日常の印象は、ある種幻想的なまでに広がり、確固たるユニークさを獲得する。それでいて宙に浮かんでいるわけではなく、表現の中核はしっかりと現実に根を下ろしている。このリアリズムの極北的表現は、哲学者を夫に持つラムジー夫人を中心に回っている。夫のラムジー氏、息子のジェイムズ、夫の友人のバンクスとタンズリー、画家を志すリリーなどが登場し、視点は目まぐるしく変わっていくのだが、彼らを繋ぎとめているのはラムジー夫人であり、彼女の印象再現力(作中では『見方』と呼ばれている)である。一見、彼らは各々が孤独であるように見える。それは一人ひとりの独自の性格、思考、悩みなどによって、外界からの断片的な情報にバイアスがかけられ、螺旋を描きながら心の奥深くに沈んでいくためである。しかし、鳥瞰すると、その断片的な情報の交換と、深奥への潜水の振れ幅をもって、彼らの意識はまるで波のように繋がっていることが分かる。ラムジー夫人の驚異的な再現力と、その魅力により周囲の人間が繋がっている様子は、以下の表現において明確である。

今やすべての蠟燭に火がともされると、テーブルの両側に並んだ顔が、その灯りのせいで近づいたように感じられ、夕暮れの光の中にいた時と違って、テーブルを囲む人々の間にある種の一体感が生まれた。というのも夜が窓ガラスの向こうに締め出されるとともに、その窓は外の世界を正確に映し出すというより、ゆらゆらと不思議に波立つような雰囲気を描き出していたからだ。

これほどまでに瞬間の全貌を捉えた表現はめったに見ない。再現された印象は読み手の記憶を掘り起こし、色褪せた体験に生気を吹き込む。命を取り戻した体験は、その後、彼の脳裏にはり付き、任意に何度でも動かすことのできる再現可能性を持つことになる。(ともあれ、このシーン、第一部十七節の晩餐会の描写は本当にすごい。夕方から夜に変わるわずかの間の妙に浮足立つような高揚感と、食事会における各種の心理過程、雰囲気の変化などが恐るべきリアリティをもって描かれている。そのため読み込みすぎると気が滅入る箇所でもある)

しかし、この在り方は第二部において突如中断される。時間は”自然”の尺度で進んでいく。皆が集まる穏やかな日常は、窓から入るすきま風によって瞬時に消え失せる。自然という絶対無情の只中にありながら、日々は美しく平穏に過ぎ去っていく。ラムジー氏の家は荒廃し、かつて皆が集ったテーブルは埃にまみれ、優雅に散歩した庭は背の高い雑草が繁茂している。家の管理を任された老婆が登場するが、彼女は家を守ることの意味を見失いかけている。自然の視点においては、人間の趨勢など取るに足らず、ラムジー夫人の死もパーレン付きの三行の文章で綴られるのみである。時おり人間の話も出てくるが、固有名詞は与えられず、大枠で”人間”と括られている。彼らはラムジー夫人のように、自然との対話・反復運動を試みる人々であり、自然はコンタクトを取ろうとする彼らを一応紹介しているという感じである。過ぎ去っていく時の中、なんかこんな人間もいた...といった風に。

そして、第三部、当時集まった人々がまた島に戻ってくる(管理人の老婆は、人手を集めて家を大掃除した)。この章において、ラムジー夫人の死がどれほど大きいものだったかが身に染みて感じられる。夫のラムジー氏は悲劇の男やもめとなり、息子のジェイムズは父親に対する憎しみにとりつかれていて(第一部においては幼少期特有の鋭い感性を有していたが、それはラムジー夫人との交流があってこそだった。彼女が死に、ラムジー氏の無骨な刃にさらされるままになり、即物的で視野の狭い人間に成り果てた)、リリーは画家にはなれず、日々をただ過ごしているだけである。物語の人物配置に焦点をおくならば、彼女はラムジー夫人のネガであり、行動も思考も夫人の言動を裏面から通り抜けていくように描かれている。しかし、対立するがゆえに近しい点もあり、印象再現においては、夫人と同じ方面を向いているように見える(しかし、夫人と肩を並べるほどではなく、リリーはあくまで近視眼的心理が専門である)。いわばリリーは、対立構造を通してラムジー夫人に依存していたのであり、夫人の在り方を鏡越しに解釈することで足場を固めていたのだろう。リリーが在りし日の夫人の姿を思い浮かべながら涙する場面がある。彼女にとって、夫人の死は存在を揺るがす大きな喪失だったのである。ラムジー夫人の不在によって、生き生きとした光景は失われ、どこか薄靄がかかったような非現実感が大きな割合を占めている。しかし、最終的に、ジェイムズは父のラムジー氏と和解のしるしを見出すし(完全とは言えないが)、リリーもラムジー夫人の影から脱却して自分の在り方を見つける。このぼんやりとしたハッピーエンドは、波のように続く意識の流れを、ちょうど波頭の部分で区切ったような形である。これによって、彼らが物語の枠内にとどまることなく、一人の人間として人生を歩んでいくイメージが広がっていくのである。