【感想】終ノ空(ツイノソラ)

 

古いゲームだったので動くか心配でしたが、問題なくプレイできました。

 

終ノ空

全ての対が終える空

*パッケージ裏より引用。

 

概要

1999年に発売されたケロQのデビュー作。狂気を扱った作品としてカルト的な人気があり、『さよならを教えて』『ジサツのための101の方法』と合わせて、三大電波ゲーと呼ばれています。哲学を基調としており、生と死、有限と無限、存在と非存在などがテーマとなっています。

 

シナリオ

主要人物は以下の5人。ある日校内で起きた飛び降り自殺事件を契機として、”世界の終わり”という概念が学校全体を狂気に染めていく様子が描かれています。『マルチビュー』システムにより、主要人物それぞれの視点から(彩名は除く)一連の流れを読み解いていく構造になっています。エンディングは二つだけで、琴美と彩名。

 

水上 行人(みなかみ ゆきと)

第一の視点(ファーストビュー)。ざくろの自殺をきっかけに狂っていく世界に対して、比較的楽観的な態度を取っていた少年。しかし、幼馴染の琴美が危険に晒され、集団自殺が起こるという取り返しのつかない状況に至って、ただ傍観していたことを悔やむことに。

この視点で登場する、二律背反(アンチノミー)と理性の限界という哲学、ウィトゲンシュタインの『語りえぬことには、沈黙せねばならない』という言葉は、”終ノ空”の概念、現実世界に対する行人の接し方を理解するためのヒントになっています、多分。

 

若槻 琴美(わかつき ことみ)

第二の視点(セカンドビュー)。集団狂気に染まらず、正気を保っていた少女。しかし、それ故に狂人からの憎しみを買い、R18指定のなんかすごいことに巻き込まれてしまいます。行人の幼馴染であり、彼に恋心を抱いていますが、彼ほどに強くなれないことを歯痒く思っており、自分のような弱い人間では釣り合わないと考えています。琴美が狂気に染まらなかったのは、徹底して傍観者たり得た行人の強さに依存していたからだといえます。

 

高島 ざくろ(たかしま ざくろ

第三の視点(サードビュー)。狂気を生み出した飛び降り自殺事件の当事者。小沢というチンピラからR18指定のなんかすごいイジメを受けており、世界を呪っていた女の子。自分はこんなクソみたいな人生を送るために生まれたのか、自身の生の意味を考えながら悲観に暮れていた彼女の元に、一通の手紙が届きます。そこには衝撃の事実が書かれていました。なんとざくろちゃんは、前世で世界を救った三人の戦士のうちの一人だったのです。その名もエンジェルアドバイズ。他二人の戦士と共に”大いなる災い”を退け、力を再充填するために転生しましたが、抜け目のない敵は彼女の記憶を封印し、力を取り戻すのを妨げるために、小沢のような悪の手先を遣わしたのです。そして今、再び”大いなる災い”が世界の終焉をもたらそうとしており、ざくろちゃんは”スパイラルマタイ”を実行して再び力を取り戻し、世界の危機を救う戦士となるのです......!!

というような誇大妄想に取りつかれた彼女は、”スパイラルマタイ(死寸前の状態の再現)”のために屋上から飛び降り、地面に到達する寸前で力を取り戻せると本気で信じて死んでいきました。ざくろちゃんは、そんな荒唐無稽な妄想に縋らなければいけないほど、生きる理由を切望していたのですね。

 

間宮 卓司(まみや たくじ)

第四の視点(フォースビュー)。ざくろ同様、小沢やその取り巻きからイジメを受けている少年。ざくろの死後、リルルちゃんという卓司の空想上の魔法少女(作中で放送されていたテレビアニメのキャラクターかも?)との電波的な会話を通して、存在の至りに到達し、この世界が嘘で満ちているという真実に気づきます。そして、完全な世界への”兆し”なるものを得て、現実世界の終わりを吹聴し、学校全体を狂気の渦に巻き込む首謀者となります。彼曰く、その完全な世界こそが”終ノ空”であり、そこに至るためには徹底的に堕落し、人間としての尊厳や誇りなどは捨てなければならないとのこと。というわけで、この視点でもR18指定のなんかすごいあれこれが起こります。

彼に感化された生徒たちは、世界の終わりと完全な世界の存在を妄信し、屋上から集団飛び降り自殺を図ります。卓司自身も最後に飛び降りて、”終ノ空”へと至ります。一番電波感があり魅力的な視点なんですが、最後の方はでたらめすぎてなにがなんだか......。精神破綻をきたした人間が見る幻覚のようなものです。

 

音無 彩名(おとなし あやな)

視点(ビュー)無し。”終ノ空”の概念を卓司に植え付けた人物であり、物語のカギを握ってるっぽい不思議系女子。各視点で分岐となりそうなポイントで茶々を入れてきて、何もかも分かってる感を出していますが、おそらく良い方向に転じようと頑張っているだけだと思います。キリンさんがすき......でもゾウさんはもっとすき......

 

音楽

終始不穏なBGMが流れていて非常に良いと思います。作品の雰囲気を形作っています。特にエピローグで流れる『おわりのうた』がお気に入りです。

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かなり特徴的。とくに卓司視点で登城する『不安』の絵や、卓司を見つめるグロテスクな化け物などが効果的に狂気を演出しています。場面転換の際に、背景の空に浮かんでいる謎の”目”のようなものはなんなんでしょうか?よく分かりませんが、サブリミナルに沁み込んでくる恐ろしさがあります。立ち絵もちょっと変わっていて、卓司と彩名以外なんかクセが強いです。

 

考察

よく分からないまま話が進み、なんだかよく分からない形で終わってしまうので非常に難解。何度かやり直して見方を変えつつ読み解いていかないと深い考察はできないと思いますが、現時点で一応整理しておきたく。

 

それ以後・・・の世界

世界が終わると噂されていた20日以後、行人は学校の校門前で記憶を失くした状態で目を覚まします。その後琴美ルートなら教室へ、彩名ルートなら屋上へ場面が移ります。

ここは正直何度エピローグを見返してもよく分からないので、以下の二通りで考えてみます。

  • 琴美ルートが”無限”であり、彩名ルートが”有限”である場合

この場合、琴美ルートでは現実世界は終わらず続いていき、行人は琴美と永遠の日常を共有していくことになります。しかし、その日常(その時間・空間)はそれまでの積み重ねの上にあるのであって、そこに繋がる時間・空間(行人と琴美の出会い、一緒に通ってきた通学路など)が確かに存在するはずではないでしょうか。そう考えるとどこかに只今の日常に接続する”始まり”があったはずであり、無限だと思われていた世界は、実は有限ということになります。つまり、琴美ルートで象徴されるのは『無限の中の有限』というパラドックスです。

対して、彩名ルートでは現実世界は終焉します。終わったということは世界は”有限”であったということであり、行人と彩名がいるのは”奈落(有限の外側)”ということになります。”終わり”があったということは、”始まり”があったということですが、その”始まり”を生んだ何かがあったはずで、さらにその何かを生んだ何かが......というように無限に”始まり”が連なっていきます。こちらのルートでは、有限だと思われていた世界が、実は無限だったということになります。『有限の中の無限』というパラドックスです。行人が「校門前で目を覚まして屋上にいる彩名に会いに行く」という行動を何度も繰り返しており(つまり無限の”始まり”)、それが”奈落”へ踏み出すごとに起きているのではないかと思える描写があるので、この解釈はある程度合っているような気がします。

  • 琴美ルートが”有限”であり、彩名ルートが”無限”である場合

この場合でも、琴美ルートでは現実世界は終わらず続いていきます。まあものは言いようなんですが、こちらは一般的に”有限”だといわれている現実世界(ドカンと一発で時空間が”始まった”世界)が”無限”に続いていくという考え方になります。琴美ルートのエピローグ冒頭では彩名が出てきますが、この時の世界は”無限”なのかもしれません。その後の生と死に関する会話で、行人は「生が死に至る病である」ことを認めた上で生の祝福を肯定していることから、彼は無限よりも有限(生まれて死ぬ存在であること)を望んでいることが分かります。だから、彩名は彼を有限の現実世界に戻したのでしょう。その世界で、彼は琴美と共に永遠の日常、『有限の中の無限』を過ごしていくことになります。

対して、彩名ルートでは、行人は”有限”の現実世界から離れて”無限”の世界に閉じ込められます。世界自体は無限(”始まり”も”終わり”もない)ですが、行人と彩名が屋上にいる”今ここ”があるということは、どこかに必ずその日常の”始まり”があったのでしょう。つまり、こちらでは無限の世界の中で、彩名と共有する”今ここ”という有限を永久に連ねていくということになります。無限に内包された有限、『無限の中の有限』の日常です。

しかし、彼らと世界のどちらが有限でどちらが無限であっても、存在するということは、そこにまず時間・空間があるということであり、彼らの存在はあくまでも世界ありきということになります。世界の内側にいる彼らには、有限の世界が無限に続いているのか、無限の世界の中で有限が連なっているのかを知るすべはありません。それこそが”理性”の限界であり、この二つのエンドで表現したかったことなのではないかと思います。

 

終ノ空とは何か

端的に言えば、『人間の理性を超越した世界』ということだと思います。”始まり”も”終わり”もない世界なので無限の一種であることは確かですが、そこには上記で述べたような有限による矛盾はありません。その世界には”存在する”ことができません。なぜなら存在してしまうと、”今ここ”を規定しなければならなくなり(世界の内側にいることになり)、先ほどと同じように有限の矛盾が生じてしまうからです。卓司は終ノ空のことを『存在の至り』と呼んでいましたが、世界そのものに”成る”というニュアンスの方が近いのかもしれません。

卓司視点で三角で四角で高次元がうんたらかんたら言っていたので、終ノ空は物理的な高次元宇宙のことを指しているのではないかと思っていましたが、上記の通り極めて観念的な事柄だということが分かります。また、彩名エピローグで「”終ノ空”は、この空に繋がっていてはいけない」というようなことを言っており、有限・無限の矛盾を孕んだ彩名エンドの世界に対して、終ノ空はその矛盾が無い世界であることが逆説的に分かります。

 

音無彩名は何者か

最後まで答え無しですが、仮に終ノ空が実在するならば、かつて”終ノ空だったもの”ではないでしょうか。上記で述べたように、矛盾の無い完全な無限世界には”存在”することができません。人間も動物も物もなく、単に<である>ことしかできないのだと思います。そんなのクソつまらんしやめたるわと思い立った彩名は、有限という不完全を求めるようになり、その観念を共有できる人間を探していたのではないかと思います。

完全な世界を夢想するのは、この世界が不完全であることを実感している人間です。この世は嘘で満ち溢れた不完全な世界であり、人間は自ら虚構を纏いながらでないと生きていけない。ならば、元々生きることに意味などないのではないか。そんな誰に問うても”語り得ぬ”ことに目を向けた人間に対して、彩名は”終ノ空”という完全な世界の概念を植え付け、それを知ってなお”完全”に魅了されず、冷静に見つめて有限の”不完全”を選ぶ人間を待っていたのではないでしょうか。

ここに卓司と行人の違いがあります。卓司はイジメを受けていたこともあって、自らの生きる意味を悲観的に捉えていました。彩名との会話によって「”兆し”を得た完全な世界=終ノ空なのだ」と理解した卓司は、その”完全さ”に目が眩んで、自分の生の意味とは「この不完全な世界とはおさらばして完全な世界へ至ることだったのだ」と思い込みます。それまで生を悲観していた分、その思い込みは一層強いものだったでしょう。そのため、上述のような完全な世界が完全であるがゆえの欠陥を持っていることに気づきませんでした。あるいは、気づいていたかもしれませんが、嘘で満ちた不完全な世界よりはましだろうと考えていたのではないかと思います。

行人も同様に生の真の意味を考えていたので、”終ノ空”の概念を彩名から授かりました。しかし、卓司と異なるのは、純粋に生きる意味を問うていたということです。悲観から入った卓司は、生きる意味という誰も”語り得ぬ”ことを堂々と皆に問いかけましたが、行人はそれに対して”沈黙し”、それから一歩先へ進んで「生きる意味など誰も分からないが、間違いなく生は祝福されてもいる」という考えに辿り着きます。生まれた時点で死は決まっており、あまつさえ嘘を寄る辺に生きていかなければならないので『生は呪い』だと言えるでしょう。しかし、確かに行人の言う通り、なぜか生まれることは祝福されます。このことから、行人は『人間には何らかの生への意思』があり、生は呪いであると同時に祝福されてもいるという結論に至ります。その上、彼は完全な世界が完全であるがゆえの欠陥に気づいていたので、そんな欠陥のある世界<である>よりは、不完全ではあるが祝福されている生(つまり死であり”有限”)の方が良いだろうと考えたのではないでしょうか。

行人は”終ノ空”に至ることなくその考えに到達することができたので、彩名は彼を尊敬していたのだと思います。

 

その他雑感

  • 狂った作品なのは確かですが、テーマはありふれたものであり、狂っていて難解であるがゆえに、ありきたりな台詞が胸に残ります。
  • テキストが短くて読みやすいです。速い人だと4~5時間でクリアできますが(つまり”有限”)、それだとよく分からないと思うので(つまり解釈は”無限”)、何度もやり直すことになると思います(つまり無限の”始まり”=”有限の中の無限”)。
  • バックログ無しってマ?

 

なかなか時間をかけて書き上げましたが、自分が何を書いていたのかよく分からなくなってきた......まあ、なんかとりあえず達成感はある。