【まとめ】永遠の歴史(J.L.ボルヘス)

 

こういった思想書を読んでいる時、僕が行っている作業は、単に書いてあることを整理しているだけだということに気づいたので、「まとめ」とさせていただきます。

なんたらoffで見つけて雑に買いました。エッセイ集なので文学論とか時間論とか様々な思索をまとめたものですが、とりあえず「永遠の歴史」「循環説」「円環的時間」の三編を読んだので、まとめておきたいと思います。

 

永遠の歴史

その名の通り永遠に関する哲学的な思索と、その歴史をざっとまとめた論考であり、大きく三部に分けて書かれています。一部ではプラトン的永遠(実在論に根拠を置く)、二部ではキリスト教的永遠(唯名論に根拠を置く)、三部ではボルヘス自身の永遠観が述べられています。永遠とは「あらゆる事物(時間も含む)が同時的に存在し、全体が一であり、不透明なものはなく、限りなく透明で澄み渡っている状態」みたいなことが書かれていました。実在論的永遠論では、個物(人間や動物、植物など世界に存在する事物)に先行する普遍(諸々の事物の原型。最終的には相違・相似・幾何などの概念となる)が実在すると仮定して、それら普遍の集約が永遠であると解釈します。この論においては、我々に創造性は皆無であり、全ての行為は普遍のコピーに過ぎないということになります。対して、唯名論的永遠論では、実在は個物のみであり、普遍は人間の仕立てた虚妄であると説きます。この論では普遍という個物を維持する概念が存在しないため、個物を創造すると同時に、不断に保存する何者かが必要になります。創造と保存を司る「全知」の存在、それは全てを一瞬にして観測し記録できる永遠的な力を持ちます。つまりこの論では、創造と保存を一つの存在に集約させ、その存在の持つ「全知」という属性を永遠として解釈しています。もしその存在がよそ見をすれば、我々は一瞬にして消え去ることになります。

最後に、ボルヘスは「時間の中に永遠の客体が存在する」という考えを前提に、上記の両論のような思索に基づくものではなく、実体験に基づいた心的過程の分析を通して、永遠の知覚について述べています。ボルヘスはある夜のこと、とある街角で「まるで十九世紀にいるかのような」感覚に包まれます。その時の気候、月光の具合、香り、雰囲気などが調和した時、そのような感覚が起こるらしいですが、ボルヘスはそれを”実際に”十九世紀にいたと解釈します。まさにその瞬間に彼は時間の中にある永遠の客体に触れたのであり、”まるで~かのように”感じられるのは我々が時間という幻想に縛られているからだと解釈できます。時間は訪れては過ぎ去っていくものであるがゆえに、瞬間は個性を生みますが、仮にそれが幻想に過ぎず、永遠が本質なのだとしたら、瞬間は個性を喪失し、透明に澄み渡ってしまいます。この考えは、なんかちょっと寂しいなと思います。

 

循環説

この論考では永劫回帰について述べています。宇宙に存在する原子(それか何かしらの最小単位)は有限であることを前提とし、事象のとりうる状態をそれらの順列組み合わせだと仮定すると、それら組み合わせも有限となり、どれだけ長い時間を経たとしても必然的に同じ事象が繰り返される、という考え方です。端的に言えば、我々は過去と同じことを、そっくりそのまま繰り返している可能性があるかもね、ということだと思います。古代ギリシアから似たような考え方は提唱されていたようですが、一般的にはニーチェの思想として定着しています。この論考においては、そのニーチェの考え方に対し、根本を崩すような対立思想を挙げています。すなわち、宇宙を構成する最小単位は無限説です。カントールという人の考え方で、いわば思考遊戯のようなものですが、宇宙の任意の空間を切り取った際に、その中に存在する点の数は、その空間をさらに切り取った部分的な空間内に存在する点の数と本質的には同じと考えます。どれだけ小さく切り取っても、そこに空間がある限りは、それを構成する点が存在するため、最小単位は無限となります。そうなると可能な順列組み合わせも無限となるため、永劫回帰の思想は危うくなります。また、ニーチェ永劫回帰の”記憶”との確証については特に言及しておらず、時間の流れにおいて起こり得ると仮定しておきながら、記憶との関係性が明らかになっていないところが「う~ん」となるところだと思います。個人的にはそもそも時間の流れを前提としていることに違和感があります。この考え方だと、可能な組み合わせの状態は同時的に存在していて、我々の意識が状態から状態へ飛び回っているイメージで、それだと過去も未来も現在も無いのでは?と思った...が、いや、飛び回っているということは時間が流れているということかな...?うーん、どっちなのか分からなくなりましたが、おそらく記憶を持つがゆえに過去ができ、現在までの過程が分かり、そこから未来を予想してしまうので、時間という枠が出来上がってしまうのかもしれません。時間が幻想なのだとしたら、記憶を遠因として我々はその幻想に縛られているということでしょうか。すべて記憶が悪い。忘却がいい。

 

円環的時間

ここでは、永劫回帰の形式をまとめています。かなり短い論考で、占星術的な永劫回帰、同一事象が反復する永劫回帰、類似的事象が反復する永劫回帰の三形式をざっくり紹介しています。占星術的な永劫回帰は、いわば予言のようなものです。長大な時間を経た後に歴史は再び繰り返されるであろう...みたいな。同一事象が反復する永劫回帰は、上記のニーチェの考え方が主流となりますが、時間の流れを前提としない思想も含まれているようです。時間の経過にしたがって状態が組み上がっていくのではなく、すでに組み上がった状態が同時的に存在しているという考え方です。

最後に類似的事象が反復する永劫回帰ですが、おそらくこれはボルヘスの持論です。永劫回帰というワードで分類すべきかどうかですが、要するに個人の経験のレパートリーは有限なので、昔の人が経験したことと似たようなことが、その個人の人生においても繰り返されることがあるだろうと述べています。俗っぽい感じになり、”個人”を焦点としたかなり限定的な話になったのが気になりました。今までの論を踏まえると、レパートリーが有限ならば同一事象が繰り返される可能性もあるのでは?と思ってしまうので、”類似的”という点をあくまでも維持しつつ考えてみると、次のようになるかなと思います。すなわち、個人の認識・感情・思考などの枠組みは有限であるので繰り返される可能性はある。しかし、巡ってきた枠組みにおける個人の経験の細部は全く同じとはならず類似的であるにとどまり、経験の流れ(運命)のみ枠組みに従う、という考え方です。

 

以上、まとめてみましたが、時間の流れが実在するのか、記憶のせいで時間の流れを錯覚しているだけなのか(状態は同時的に存在するのか)が分からないのがモヤっとします。やっぱり記憶が悪い。忘却がいい。

 

最後に、本内容とは関係ないですが(考察次第では関係しているかもしれませんが)、「永遠」と聞くとウィリアム・ブレイクの詩を思い出します。『博士の愛した数式』で出てたやつです。いい詩だと思います。

一つぶの砂に 一つの世界を見
一輪の野の花に 一つの天国を見 
てのひらに無限を乗せ
一時のうちに永遠を感じる

 

またなんか気が向いたらまとめたいです。

 

【感想】SF小説 その⑥

 

時間系・並行世界系のSFでまとめました。

夏になると時を駆けたくなるね。

 

時間衝突(バリントン・J・ベイリー

時間衝突 (創元推理文庫)

時空を超えた戦争を描いた話。世界観やストーリーラインはありがちですが、注目すべきは、一つの時間線上で二つの〈現在〉が衝突するという突飛なアイデアです。その基となる時間論は奥の深いものですが、脱線せず自然な形で物語に絡めているところに著者のSF作家としての技量を感じます。いわゆるハードSFではないので、比較的読みやすく、おすすめです。

 

クォンタム・ファミリーズ(東 浩紀)

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

オタクでありながら今まで東さんの著作に触れたことがなく、初めて読んだのがこちらになりました。並行世界を扱った作品で、読み進めていくと階層が連なり、重なり、交差し、最終的になんのこっちゃ分からなくなります。しかし、それも単に複雑なだけで図式化すると整理できそうな感じです。難解なのはプロットではなく、並行世界の考え方であり、量子論的とも哲学的ともいえる独自の発想を理解するのは骨が折れます。登場人物の名前からも分かる通り、往年のエロゲ(特にCLANNAD)の影響を受けているらしく、感動的なストーリーかと思いきや、個人的にはそこまで...という感じでした。今度「クリュセの魚」も読んでみますね。

 

10月1日では遅すぎる(フレッド・ホイル

野田昌宏文庫

世界の時間が分裂し、各時代が混在してしまう話。フランスは20世紀初頭に、ギリシャは紀元前5世紀に、ロシアは数千年先の未来に...という風にバラバラになってしまいます。悲観すべき状態ですが、飛行機で世界のあちこちを周って、どこがどの時代に属しているのか、ある時代と隣り合う別の時代の境界線はどこなのかを調査しているシーンでは冒険心がかきたてられます。小不思議(時間が分裂するのは大変なことなので小ではないが、プロット上では)⇒小不思議での生活⇒大不思議の流れは、昔のSFにありがちな王道の展開。だけどそれがいいんです。

 

紫色のクオリアうえお久光

紫色のクオリア (電撃文庫)

久しぶりに面白い!と思える作品に出会いました。やはりラノベが一番しっくりくるんだなと。人間がロボットに見える少女”ゆかり”と、彼女を死の運命から救い出すために数多の並行世界を渡り歩く少女”マナブ”の友情(百合?)物語です。過去を改変し、友人を裏切り、殺人を犯し、自らを捨てて他人として生き、ついには存在することも辞めてしまったマナブに対して、ゆかりが示した光の道とは......

中盤から怒涛の展開で整合性が取れてるのか分かりませんが、夢中になって気づいたら読み終わっていました。『あたし』が確定することで、無数の『あたし』は収束する(もしくは干渉を喪失する)。

 

ゲイルズバーグの春を愛す(ジャック・フィニイ

ゲイルズバーグの春を愛す (ハヤカワ文庫 FT 26)

時間SFに入れていいものか悩みますが、新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』にて頻出していたので一応載せます。イリノイ州ゲイルズバーグを舞台とした、30ページほどの短編小説です。SFというよりはファンタジーのテイストで、街の”過去”に出会うという不思議体験を、一人の新聞記者の視点から描いたものになります。短い作品ですが、風景描写が生き生きとして素晴らしく、ゲイルズバーグの古風で落ち着いた街並みが目の前に浮かんできます。おそらく都市開発の只中で書かれたのでしょうが、個性的な街並みが普遍的で無機質なものに変わっていく寂しさと、それでも”過去”は消え去ることなく我々の内に確かに残るのだというメッセージ性を感じました。実家の近所にあった田んぼが無くなって家が建っているのを見つけた時少し寂しかったりしますし、こうした感性は我々日本人にも通ずるものだと思います。

 

輪廻の蛇(ロバート・A・ハインライン

輪廻の蛇 (ハヤカワ文庫SF)

タイムパラドックス小説として有名な作品です。映画化作品『プリデスティネーション』を見たことがあったので、ちょっと味気なく感じたのですが、わずか数十ページの紙幅で複雑なタイムラインを展開させ、ラストに全てを畳めるのは流石の職人芸といえます。必要最低限の描写で構成されているので、あまりドラマ性を感じられず、そういう意味では映画の方がいいかなと思いました。”俺”の輪廻に飲まれよ。

 

タイム・リープ 上・下(高畑京一郎

タイム・リープ<上> あしたはきのう (電撃文庫)

こちらもまたパラドックスもの。あることをきっかけに時間を跳躍してしまった少女が、通常の時間線に戻るため、同級生の男の子と協力してリープの謎を解明していくお話です。リープ現象は一週間のうちで起こっており、少女は日曜から土曜までを行ったり来たりします。パズルの仕組みやタイムマップが示されているので分かりやすく、流れを理解しながら読むことができました。展開の仕方も素晴らしく、欠けていたピースが徐々に埋まって全体像が明らかになる感じで、純粋に読んでて楽しかったです。ちなみに、この作品における時間跳躍は、跳躍者当人の”意識”のみが移動する仕組みですが、この考え方は先に紹介した『10月1日では遅すぎる』の主要時間論、また『所有せざる人々』にて登場する”同時性理論”と似ています。時間SFの類型を掴んでいきたいと思います。

 

 

まあ、ぼちぼちね、読んでいきましょう。

 

【考察】ベンヤミンと『映像のポエジア』

 

最近は人文思想系の本もちょこちょこ読んでいます。

偶然、直近で読んだ二冊に関連性があったため、まとめておきたい。

 

概説

ベンヤミンの基本思想を理解するための10編の論考を掲載した文庫。事物に対する深い思索と精緻に選び抜かれた文章を堪能できる本である。おそらく初期⇒後期の順に並んでいるが、序盤は論文間の意味内容の連関というより、ベンヤミンの考察の幅広さを主眼に置いている。中でも印象に残ったのは『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』と『技術的複製可能性の時代の芸術作品〔第三稿〕』。

 

ロシアの映画監督タルコフスキーの芸術論・映画論をまとめたエッセイ集のようなもの(中古で一万超えたんよ......)。中期から後期にわたる彼の映画に対する考え方の変遷がよく分かる。熱が入りすぎて最終的に文明論的批評じみた文章も散見されるが、彼の難解な映画にもちゃんと意図があるということを知ることができた。「よく分からない映画を作る人」という認識を変えることができたので、良い本。

以下の記述は、主に先に挙げたベンヤミンの二つの論考を基礎とし、『映像のポエジア』から補足的もしくは対置的に引用を行う形で進める。

 

無意志的記憶と意志的記憶

過去は漠然としたものである。過ぎ去ったものについて思う時、浮かぶのは互いに独立しているように見えるイメージの断片にすぎない。これは遥か昔ではなくとも、つい昨日のことに関してもいえる。思い浮かべるものには「空白」が存在する。その空白こそ過ぎ去ったものであり、ベンヤミンの論考では”無意志的記憶”として登場する。それは、通常の「記憶をたどる」という行為において、注意力(もしくは集中力)を用いて回想する連続的な記憶(”意志的記憶”)と対置される。

……意志的な回想についていえることは、過ぎ去ったものについてそれが与える情報のうちには、過ぎ去ったものが何も留められていないということだ。

これに関して『映像のポエジア』において、分かりやすい記述がある。ある一日について注意力を用いて回想するとこのようになるだろう。

それは骨格も図式もなく漂う何か無定形なもの、雲のようなものであろう。しかしこの一日の中心的な出来事だけは、その記憶のなかで、議事録的な具体性と明確な意味とはっきりしたフォルムのなかに凝縮されている。事件は、その日全体を背景として、霧のなかの木のように際立っている。…私が霧とか雲とか言っているものは一様なものではない…対象や状況は、明確な輪郭を欠いた、偶然的で不完全なものとして記憶される。

ここでいう”対象や状況”こそ無意志的記憶であり、タルコフスキーはそれを「人生の感覚」と呼んでいる。人生の感覚、つまり人生(個人の歴史)を感じさせる出来事の知覚・印象である(タルコフスキーはその映画活動の大半において、その人生の感覚を観客に与えることに注力したといってもよい)。無意志的記憶を意識的記憶と区別するのは、この人生の感覚を内包しているか否かだといえる。そして、それは感覚(味・香り・光景・音など)と深く結びついている。感覚が無意志的記憶を呼び起こす事例として、『須賀敦子全集 第5巻(河出書房新社)』よりウンベルト・サバの詩「よろい戸が閉まっていて」を引用したい。

遠い感覚が

こころを突き刺す、

不意の記憶が。

......じぶんの家にそのひとといる、

それがすべてを変えていて、

すべてがぼくを惑わせる。

......よろい戸は、夏休みの

予感を持ってくる、

もうすぐそこの夏の。

海にいる至福の時間を

夢みたり、息せいて走った

そのあとの冷たい飲物やら、

山、緑濃い峡谷。どれもこの目で

見たわけではなく、ひとり

本を読みふけった小学生。

これが、きみにとって

なんだと思うだろうか、

少女よ、顔をうつむけていいよ。

......けがれないむすめの乳房が、至福の

ことたちの記憶を呼び覚ましたのさ。

遠い、なつかしいことたちを。

この詩において、「ぼく」はよろい戸という日常の光景と少女の乳房という非日常の光景を起点として、過ぎ去った夏の気配(無意志的記憶)の想起に立ち会っている。「息せいて走ったあとの冷たい飲み物」や「本を読みふけった」記憶などは、夏の気配に付随する具体的な事象(意志的記憶)である。この時、「ぼく」はまさに”人生の感覚”を受け止めているはずだ。

僕もこのような無意志的記憶の想起に立ち会うことがある。例えば、僕はよく高校時代を思い出す。校舎と体育館の間の渡り廊下や、テニスコートのネットが風にはためく様子、教室から見える中庭などの具体的な視覚イメージから始まるが、不意に、突然、当時高校生だった頃の”本物の感覚”が湧き上がる。それは、匂いや肌触りや音の集合体のようにも思える。それは、当時からこれまでに経た長い歳月を一気に逆行したかのような感覚である。しかし、現れたと思う手前で、それは瞬時に消失し、やはり具体的な視覚イメージのみが残ることになる。この過去の真のイメージともいえる複合的な”雰囲気”のあり方については、ベンヤミンにおいて端的な記述がある。

過去の真のイメージはさっとかすめ過ぎてゆく。それを認識できる瞬間に閃き、そしてその後は永遠に目にすることのないイメージ、過去はそのようなイメージとしてしか、しっかりととどめておくことができない。

このように無意志的記憶とは(タルコフスキーの言葉を借りるならば)霧や雲のように掴みどころのないものであるが、僕が具体的な視覚イメージから一瞬到達できると思えるように、意志的記憶とは密接に関係していることが分かる(後述するが、それは悲劇的ともいえる)。

ところで、僕が高校生だった頃の複合的な雰囲気を無意志的記憶であると断言できる要因とはなんだろうか。それは次で述べる『アウラ』の観念に由来する。

 

アウラ』の観念

僕に去来した複合的な雰囲気は、過去のどこかの時点で確かに経験したもの、あるいは経験したものの総体であるに違いない。それは生活の流れの中で「いま、ここ」というある時点に特有の状況であり、それを形づくる知覚と印象を切り取ったものであるといえるだろう。ベンヤミンにおいて、この「いま、ここ」という一回的な特質は『アウラ』と呼ばれている。

オリジナルのもつ「いま、ここ」という特質が、オリジナルの真正性〔本物であること〕という概念をつくりあげる。

逆にいえば、真正であるならば「いま、ここ」という特質が備わっていることになる。単なる逆説的な言い換えではなく、無意志的記憶がそれと分かる特徴として、アウラを備えていることは、同様に記述がある*1

無意志的記憶のうちに根づいたものでありながらも、ある直観の対象のまわりに集まろうとするイメージを、その対象のオーラと呼ぶ......

無意志的記憶から浮かび上がるイメージの他と異なる特徴は、そのイメージがオーラを持っているということである......

僕が想起した雰囲気が、高校生の頃の”本物の感覚”であると判断できたのは、それがアウラをまとった無意志的記憶だったからだ(あるいはそう思いたい)。ここで述べられているアウラの感覚を、タルコフスキーは複製技術である「映画」において産み出そうとした。彼の一回性へのこだわりは凄まじいものがある。

映画は、現実の動きそれ自体を、事実記述に基づく、具体的な反復不可能性のなかで、記録する手段として生れた。この現実の動きそれ自体とは、移ろいゆく流動性のなかで、一瞬一瞬、幾度でも再現される瞬間のことである。......われわれは、現実を、われわれによって描かれた一瞬一瞬の、触知可能な具体性のなかに、その手触りと感覚において、反復不可能なもの、ユニークさのなかに固定するのである。

ここで「反復不可能なもの」「ユニークさ」と呼ばれているものが、アウラと近しい一回性の権化として、彼の著書の中で度々現れる観念である。彼はその反復不可能性を反復可能性を持つ映画において表現しようとする背理的試みに囚われていた。

ここにおいて、ベンヤミンタルコフスキーの思想は対立しているように見える。ベンヤミンは、複製技術(映画)において、アウラは衰退を免れないと述べている。

いくつも複製を作り出すことによって、複製技術は、複製されるものを一回限りのものとして出現させるのではなく、大量に出現させることになる。

複製によって真正性は失われ、ユニークな現象は霧散してしまう。しかし、これは芸術作品そのものについての考え方である。タルコフスキーは映画(彼はこれを”芸術”であると言っていた)を通して、観客に対してアウラに似た一回性のユニークさ、人生の感覚を与えたいと考えていた。そのため、映画の中に一回性そのものを取り込まなくてもよい。映画が一回性を呼び覚ませばよいのである。この考えがあったからか分からないが、タルコフスキーは一回性(ユニークさ)の持つ二面性について把握していた。

パラドクスは、イメージのなかに具体化されているもっともユニークで、反復不可能なものが、奇妙なことに典型的なものになるということだ。どれほど奇妙に思われようとも、典型的なるものは、それとまったく似ていないようであるが、単一的なもの、個人的なものとの直接的な関係のなかに存在している。

ユニークさ、反復不可能性が持つ典型的な側面を認識し、それを数々の物語の登場人物やドラマツルギーのうちに見出していたからこそ、彼は一回性の映画への適用可能性を確信していたのではないだろうか。しかし、上記の引用文においてみられる「具体性」「事実記述」などのキーワードから明らかなように、映画は本質的に”近い”ものである。この”近さ”が、タルコフスキーの試みを困難なものにしていた。

”遠さ”と”近さ”

話が前後するようだが、そもそもアウラとは、強い「まなざし」によって生起する。まなざしの強さは、まなざしを向ける対象が持つ”遠さ”による。僕が過去を思う時、それは現在から過ぎ去ったものとしての遠さがある。この遠さに注目すること(先述の例でいえば、学校の視覚イメージを意志的に思い出すこと)で、注目された対象は「まなざし」を返してくれる。この結果として一回性の現象が発掘される。

見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを開く。ある現象のオーラを経験するということは、この現象にまなざしを開く能力を付与するということである。

この”遠さ”とは、粗削りであることを承知でいえば”不明瞭さ”であるといえるだろう。不明瞭なものに対しては、より注目して理解しようとする。芸術作品においても、この不明瞭さは存在する。何を表現しているのかよく分からない絵、読めはするが理解不能な文章、いまいち聞き方が分からない音楽などである。こうした不明瞭さ≒遠さが本来の芸術作品の持つ特質であり、そこから一回性が生じるのに対し*2、複製技術(映画)は”明瞭”≒”近”すぎるために、まなざしを向けられる余地がない。つまり、注目し、想像力を働かせる余裕がないということである。

その複製技術の”近さ”は、その高度の具体性・事実記述性に由来する。特に映画においては、その場の状況が音・映像・文章により、瞬時に明確に認識できる。そして、何より「速い」。しかし、明瞭であるがゆえに速くても(芸術作品に対する理解の基準で比べれば)理解したと思える作品がほとんどである。こういった理由で、ベンヤミンは、複製技術はまなざしによる想像力を励起させないために、アウラ(一回性)を生じさせることが困難であると考えた。

しかし、この映画の持つ具体性・事実記述性を用いて、その奥に”遠さ”を生み、芸術作品を鑑賞するのと同じように、観客にまなざしを開く機会を与えようとしたのがタルコフスキーである。彼は、まさに具体性こそユニークさへの扉だと考えていた。

観察は正確で具体的であるほど、それだけユニークなものになる、反復不可能であればあるほど、それだけイメージに近づく。

彼が考えていた手法は、僕が過去を思う時の手順と似ている。具体的な視覚イメージ(意志的記憶)を並べて、それに対してまなざしを注がせる(つまり視覚イメージで補えない空白(無意志的記憶)を強調させる)ことで、アウラ(一回性)の現象を呼び覚まそうとした。そのイメージが具体的であればあるほど空白が際立ち、求めていたユニークさが出現するというわけである。だからこそ、彼は記憶の具体性にこだわった。それは意志的記憶に過ぎなかったが、経験した事実をありのままに装飾なく、映画に入れ込んでいた。その代表的な作品が『鏡』である。この作品において、彼は幼少期からの自身の具体的な歴史を織り込んだ。しかし、彼の試みは結局さほど成功したとはいえない。つまり、大多数の人間に一回性を想起させることは難しかったということだ。

ここで、ベンヤミンタルコフスキーの思想の違いを明らかにしておきたい。先に述べた通り、ベンヤミンは芸術作品そのものについて記述しているように思える。その理論は芸術作品対複製技術という構図で展開されている。確かにその次元であれば、複製技術において一回性を再現することは難しいであろう。しかし、複製技術の内側においてならば、実現可能性があるのではないだろうか。それは、複製技術の中において芸術作品を創造する、もしくは人生を再現するということだ。これは、映画監督という職人の次元で思考したタルコフスキーだからこその創案であり、彼は究極的にはその手法を実現したかったのではなかろうかと思う。また、映画の未知性については、ベンヤミンにおいても素朴な記述がある(可能性としてではないが)。

カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは別種のものであるということがよく分かる。

しかし、タルコフスキーは自身の活動期間のうちに、その手法を完全には確立できなかった(少数の人間には”人生の感覚”をもたらすことができたようだが)。映画の”近さ”という本質的な特質は、大衆から否応なく”まなざし”を向ける機会を奪う。映画は”近い”ものであるという認識がすでに広まっている中では、反復可能性の中に反復不可能性を築き上げるという矛盾的な試みは、かなりの苦境を強いられるといえる。

 

瞬間の永遠性

複製技術の時代においてはアウラ(一回性)を発掘する機会が失われていると解釈できる。そのため、もし今後タルコフスキーのように矛盾的な試みを考える人が出てきて、手法が確立されたとしたら、映画からもアウラを引き出せる可能性はある。つまり、ここでは”持続”によるアウラの”体験化”によって一回性が衰退しているわけではない。持続によるアウラの衰退は、単に”回想”によって起こる。

ちなみに、こういった発掘物は一回限りのものである。回想がそれらを自分のものにしようとすると、その手からすべり落ちていくのだ。

ここで述べられていることこそ、アウラの体験化、つまり意志的記憶化である。ベンヤミンにおいては、アウラの発掘(無意志的記憶の知覚)を”経験”、意志的記憶に基づくものを”体験”として区別している。「すべり落ちていく」とは、その無意志的記憶を引きあげることができないということではなく、その無意志的記憶に付随するアウラが霧散するということである。それは、回想の繰り返しによって一回性を喪失してしまった無意志的記憶が、意志的記憶の中に組み込まれた状態である。この段階になっては、現象の想起に真正の感覚は生じず、味気ない不毛なものとして知覚される。つまり、”慣れ”たせいで、良い意味でのショックの効果が無くなっているといえる。

このようにショックが迎え撃ちにあい、意識によってショックがこのようにかわされることで、このショックを生み出す出来事に、的確な意味で体験という性格が与えられることになる。それによって、この出来事は(意識的な回想の保管室に直接この出来事を組み込むことで)詩的経験にとって不毛なものになる。

アウラとは「いま、ここ」の時点で特有の複合的な雰囲気であった。それは、瞬間を形成する知覚・印象であった。回想によって、その瞬間は真正性を喪失しかねない。僕も何度か想起に立ち会っているが、そのような回想を続けていると、いつの日か瞬間が零れていく可能性はある。真正性を保存するためには、回想を止める、引いてはアウラを呼び出す視覚イメージの放棄が必要となる。しかし、アウラをまとった無意志的記憶の感覚は、僕に”癒し”を提供してくれる。それは、当時の感覚をそのまま与えてくれるという点で、上質なリアリティを備えたタイムリープといえる。その感覚は手放したくない。だが、時間が経つにつれ、具体的な視覚イメージ(意志的記憶)が勝手に消えていくことがあるかもしれない。意志的記憶をトリガーとして、まなざしによる注目を介して生じるアウラは、そのトリガーを失うことになるので、深奥に潜んだままになるであろう。その時、その「いま、ここ」という瞬間は永遠に真正性を保障される。

つまり、「瞬間とは無意志的記憶である限りにおいて永遠である」といえる。

 

補足

書いているうちに連関を見出せた箇所がほとんどだったので、もしかしたら全然的外れなことを言ってるかもしれない......もし、そうだったらすみません。

でも、久しぶりに長文書いてなんか晴れ晴れとした気持ちです。

寝よ。

 

*1:本文内では「アウラ」は「オーラ」と言い換えられている。確かに直感的に分かりやすいが「アウラ」の方がかっこよくない?

*2:芸術作品における一回性も、過去を思う時に生じる一回性と本質的には同じである。僕が経験した複合的な雰囲気が「いま、ここ」という経験に根ざしたものであるのと同様に、芸術作品も、その表現技法の辿った伝統的な道筋や所有関係の移転等の物質としての歴史から切り出された一回性の現象を返してくれるだろう。それは”神聖さ”という曖昧なものとして知覚される。たぶんね。

【感想】SF小説 その⑤

 

他ジャンルにかまけているので結局ペースあがらず。

 

世界の涯ての夏(つかいまこと)

世界の涯ての夏 (ハヤカワ文庫 JA ツ 4-1)

前々から気になっていたし、夏が舞台の作品が読みたいと思ったので購入。”涯て”と呼ばれる異時空間が出現し、ゆっくりと世界が浸食されていくという話。ボリュームを抑えて必要な箇所だけコンパクトに描いているという印象です。クセがなく読みやすい文体ですが、内容は思ったよりもハードでした。終末ものというよりファーストコンタクトものといった方が正しいですね。人類は”ヒト”としての生を捨て、時間や自意識に束縛されない存在となります。

 

ソラリススタニスワフ・レム

ソラリス (ハヤカワ文庫SF)

タルコフスキーの映画は見たことあったんですが、原作は長らく積んでおりました。ソラリスという未知の惑星を調査する話で、調査ステーションに滞在する研究者たちが、理解不能な現象に苦悩する様子が描かれています。物語の流れ、基礎的なギミックは分かりやすく、表面的には宇宙的恐怖を取り入れたラブ・ロマンスという感じ。しかし、”対称体”・”非対称体”の説明やソラリス学の歴史など、病的なほど緻密な設定描写を挟むことで、SFとして異様な深みが出ています。解説に書かれている通り、この特徴は多様な”読み”を可能にするものですが、割と唐突にハードモードに突入するので、フラットな物語を軸に読んでいる人は置いてけぼりにされてしまうのではと思いました。

 

アルクトゥールスへの旅(デイヴィッド・リンゼイ

アルクトゥールスへの旅

キラキラの装丁に惹かれて買った本。少々高めの値段ですが、相応に濃い内容となっています。アルクトゥルスの架空の惑星トーマンスを旅する話で、地球から宇宙船で飛び立ち、異星人との交流を通して”マスペルの光”へ至るまでが描かれています。全体を通して観念的な内容であり、主目的さえ掴むのが困難でした。トーマンスの世界観も独特で、没入できれば強烈な読後感が得られそうですが、僕は全然ついていけず.....。あとがきによると、このトーマンスの圧倒的な描写により、フィクション=”虚”であるにも関わらず、読者に”実”体験にも似た感覚を植え付けるのと同時に、物語の中でトーマンスは作られた”虚”の世界であり、マスペルが”実”世界であると言及することで”虚”と”実”のあわいを重層的に描き出す構造になっているらしいです。しかし、それだけでなく、細部には善悪や感情などに関する記述も見られ、人間の道徳観や倫理観が通用しないトーマンスの秩序と対比させることで、そうした普遍的なテーマについて論じていく包括的な思弁小説だと言えます。

旅に出る時ほほえみを(ナターリヤ・ソコローワ)

旅に出る時ほほえみを (白水Uブックス)

おとぎ話調のSF。”怪獣”という人語を解する掘削機を発明した研究者が、専制へ傾倒する国への反感と安泰を喪失する不安との間で揺れ動く様が描かれています。基本的に登場人物には固有名詞がなく、《人間》《見習い工》《総裁》といった一般名詞で表現されているのが特徴です(しかし、ヒロインだけは『ルサールカ』という名前がついている)。ロシア文学特有の湿り気のある鬱々とした雰囲気は好みなんですが、政治的アレゴリーが強くて正直そこまで入り込めませんでした。ただ、”忘却の刑”に処されてしまいたいなぁ......とは思いました。

 

ウィトゲンシュタインの愛人(デイヴィッド・マークソン)

ウィトゲンシュタインの愛人

世界でたった一人になった女性の独白を綴った物語。世界が終末を迎えた過程については記述がなく、彼女の行動(道端の車を勝手に乗り回したり、美術館の絵を燃やしたり、世界中を探索したり...etc.)によって、彼女の他には誰もいないことが示唆されています。カバーソデに内容紹介がありますが、それを予め読んでおかないと何の本なのかさっぱり分からないでしょう。というのも、主に書かれているのは美術・ギリシア神話・言語・歴史上の人物などに関する雑多な知識の断片であり、まとまりのない連想でしかないからです。文章も不自然であり、もはや彼女は狂っていて正常な思考ができないことが分かります。しかし、正常でなくとも彼女が”考える”ということ、その思考によって回転する知識の数々は紛れもない”事実”ではないでしょうか。世界の終末という非現実的な状況の中で、そうした確固たる”事実”に縋りつくことで必死に正気を保とうとする、そんな空虚な試みが描かれた作品だと思いました。

 

 

しばらく歴史の本を読もうと思っています。

数ヶ月後に、また......。

 

 

【感想】終ノ空(ツイノソラ)

 

古いゲームだったので動くか心配でしたが、問題なくプレイできました。

 

終ノ空

全ての対が終える空

*パッケージ裏より引用。

 

概要

1999年に発売されたケロQのデビュー作。狂気を扱った作品としてカルト的な人気があり、『さよならを教えて』『ジサツのための101の方法』と合わせて、三大電波ゲーと呼ばれています。哲学を基調としており、生と死、有限と無限、存在と非存在などがテーマとなっています。

 

シナリオ

主要人物は以下の5人。ある日校内で起きた飛び降り自殺事件を契機として、”世界の終わり”という概念が学校全体を狂気に染めていく様子が描かれています。『マルチビュー』システムにより、主要人物それぞれの視点から(彩名は除く)一連の流れを読み解いていく構造になっています。エンディングは二つだけで、琴美と彩名。

 

水上 行人(みなかみ ゆきと)

第一の視点(ファーストビュー)。ざくろの自殺をきっかけに狂っていく世界に対して、比較的楽観的な態度を取っていた少年。しかし、幼馴染の琴美が危険に晒され、集団自殺が起こるという取り返しのつかない状況に至って、ただ傍観していたことを悔やむことに。

この視点で登場する、二律背反(アンチノミー)と理性の限界という哲学、ウィトゲンシュタインの『語りえぬことには、沈黙せねばならない』という言葉は、”終ノ空”の概念、現実世界に対する行人の接し方を理解するためのヒントになっています、多分。

 

若槻 琴美(わかつき ことみ)

第二の視点(セカンドビュー)。集団狂気に染まらず、正気を保っていた少女。しかし、それ故に狂人からの憎しみを買い、R18指定のなんかすごいことに巻き込まれてしまいます。行人の幼馴染であり、彼に恋心を抱いていますが、彼ほどに強くなれないことを歯痒く思っており、自分のような弱い人間では釣り合わないと考えています。琴美が狂気に染まらなかったのは、徹底して傍観者たり得た行人の強さに依存していたからだといえます。

 

高島 ざくろ(たかしま ざくろ

第三の視点(サードビュー)。狂気を生み出した飛び降り自殺事件の当事者。小沢というチンピラからR18指定のなんかすごいイジメを受けており、世界を呪っていた女の子。自分はこんなクソみたいな人生を送るために生まれたのか、自身の生の意味を考えながら悲観に暮れていた彼女の元に、一通の手紙が届きます。そこには衝撃の事実が書かれていました。なんとざくろちゃんは、前世で世界を救った三人の戦士のうちの一人だったのです。その名もエンジェルアドバイズ。他二人の戦士と共に”大いなる災い”を退け、力を再充填するために転生しましたが、抜け目のない敵は彼女の記憶を封印し、力を取り戻すのを妨げるために、小沢のような悪の手先を遣わしたのです。そして今、再び”大いなる災い”が世界の終焉をもたらそうとしており、ざくろちゃんは”スパイラルマタイ”を実行して再び力を取り戻し、世界の危機を救う戦士となるのです......!!

というような誇大妄想に取りつかれた彼女は、”スパイラルマタイ(死寸前の状態の再現)”のために屋上から飛び降り、地面に到達する寸前で力を取り戻せると本気で信じて死んでいきました。ざくろちゃんは、そんな荒唐無稽な妄想に縋らなければいけないほど、生きる理由を切望していたのですね。

 

間宮 卓司(まみや たくじ)

第四の視点(フォースビュー)。ざくろ同様、小沢やその取り巻きからイジメを受けている少年。ざくろの死後、リルルちゃんという卓司の空想上の魔法少女(作中で放送されていたテレビアニメのキャラクターかも?)との電波的な会話を通して、存在の至りに到達し、この世界が嘘で満ちているという真実に気づきます。そして、完全な世界への”兆し”なるものを得て、現実世界の終わりを吹聴し、学校全体を狂気の渦に巻き込む首謀者となります。彼曰く、その完全な世界こそが”終ノ空”であり、そこに至るためには徹底的に堕落し、人間としての尊厳や誇りなどは捨てなければならないとのこと。というわけで、この視点でもR18指定のなんかすごいあれこれが起こります。

彼に感化された生徒たちは、世界の終わりと完全な世界の存在を妄信し、屋上から集団飛び降り自殺を図ります。卓司自身も最後に飛び降りて、”終ノ空”へと至ります。一番電波感があり魅力的な視点なんですが、最後の方はでたらめすぎてなにがなんだか......。精神破綻をきたした人間が見る幻覚のようなものです。

 

音無 彩名(おとなし あやな)

視点(ビュー)無し。”終ノ空”の概念を卓司に植え付けた人物であり、物語のカギを握ってるっぽい不思議系女子。各視点で分岐となりそうなポイントで茶々を入れてきて、何もかも分かってる感を出していますが、おそらく良い方向に転じようと頑張っているだけだと思います。キリンさんがすき......でもゾウさんはもっとすき......

 

音楽

終始不穏なBGMが流れていて非常に良いと思います。作品の雰囲気を形作っています。特にエピローグで流れる『おわりのうた』がお気に入りです。

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かなり特徴的。とくに卓司視点で登城する『不安』の絵や、卓司を見つめるグロテスクな化け物などが効果的に狂気を演出しています。場面転換の際に、背景の空に浮かんでいる謎の”目”のようなものはなんなんでしょうか?よく分かりませんが、サブリミナルに沁み込んでくる恐ろしさがあります。立ち絵もちょっと変わっていて、卓司と彩名以外なんかクセが強いです。

 

考察

よく分からないまま話が進み、なんだかよく分からない形で終わってしまうので非常に難解。何度かやり直して見方を変えつつ読み解いていかないと深い考察はできないと思いますが、現時点で一応整理しておきたく。

 

それ以後・・・の世界

世界が終わると噂されていた20日以後、行人は学校の校門前で記憶を失くした状態で目を覚まします。その後琴美ルートなら教室へ、彩名ルートなら屋上へ場面が移ります。

ここは正直何度エピローグを見返してもよく分からないので、以下の二通りで考えてみます。

  • 琴美ルートが”無限”であり、彩名ルートが”有限”である場合

この場合、琴美ルートでは現実世界は終わらず続いていき、行人は琴美と永遠の日常を共有していくことになります。しかし、その日常(その時間・空間)はそれまでの積み重ねの上にあるのであって、そこに繋がる時間・空間(行人と琴美の出会い、一緒に通ってきた通学路など)が確かに存在するはずではないでしょうか。そう考えるとどこかに只今の日常に接続する”始まり”があったはずであり、無限だと思われていた世界は、実は有限ということになります。つまり、琴美ルートで象徴されるのは『無限の中の有限』というパラドックスです。

対して、彩名ルートでは現実世界は終焉します。終わったということは世界は”有限”であったということであり、行人と彩名がいるのは”奈落(有限の外側)”ということになります。”終わり”があったということは、”始まり”があったということですが、その”始まり”を生んだ何かがあったはずで、さらにその何かを生んだ何かが......というように無限に”始まり”が連なっていきます。こちらのルートでは、有限だと思われていた世界が、実は無限だったということになります。『有限の中の無限』というパラドックスです。行人が「校門前で目を覚まして屋上にいる彩名に会いに行く」という行動を何度も繰り返しており(つまり無限の”始まり”)、それが”奈落”へ踏み出すごとに起きているのではないかと思える描写があるので、この解釈はある程度合っているような気がします。

  • 琴美ルートが”有限”であり、彩名ルートが”無限”である場合

この場合でも、琴美ルートでは現実世界は終わらず続いていきます。まあものは言いようなんですが、こちらは一般的に”有限”だといわれている現実世界(ドカンと一発で時空間が”始まった”世界)が”無限”に続いていくという考え方になります。琴美ルートのエピローグ冒頭では彩名が出てきますが、この時の世界は”無限”なのかもしれません。その後の生と死に関する会話で、行人は「生が死に至る病である」ことを認めた上で生の祝福を肯定していることから、彼は無限よりも有限(生まれて死ぬ存在であること)を望んでいることが分かります。だから、彩名は彼を有限の現実世界に戻したのでしょう。その世界で、彼は琴美と共に永遠の日常、『有限の中の無限』を過ごしていくことになります。

対して、彩名ルートでは、行人は”有限”の現実世界から離れて”無限”の世界に閉じ込められます。世界自体は無限(”始まり”も”終わり”もない)ですが、行人と彩名が屋上にいる”今ここ”があるということは、どこかに必ずその日常の”始まり”があったのでしょう。つまり、こちらでは無限の世界の中で、彩名と共有する”今ここ”という有限を永久に連ねていくということになります。無限に内包された有限、『無限の中の有限』の日常です。

しかし、彼らと世界のどちらが有限でどちらが無限であっても、存在するということは、そこにまず時間・空間があるということであり、彼らの存在はあくまでも世界ありきということになります。世界の内側にいる彼らには、有限の世界が無限に続いているのか、無限の世界の中で有限が連なっているのかを知るすべはありません。それこそが”理性”の限界であり、この二つのエンドで表現したかったことなのではないかと思います。

 

終ノ空とは何か

端的に言えば、『人間の理性を超越した世界』ということだと思います。”始まり”も”終わり”もない世界なので無限の一種であることは確かですが、そこには上記で述べたような有限による矛盾はありません。その世界には”存在する”ことができません。なぜなら存在してしまうと、”今ここ”を規定しなければならなくなり(世界の内側にいることになり)、先ほどと同じように有限の矛盾が生じてしまうからです。卓司は終ノ空のことを『存在の至り』と呼んでいましたが、世界そのものに”成る”というニュアンスの方が近いのかもしれません。

卓司視点で三角で四角で高次元がうんたらかんたら言っていたので、終ノ空は物理的な高次元宇宙のことを指しているのではないかと思っていましたが、上記の通り極めて観念的な事柄だということが分かります。また、彩名エピローグで「”終ノ空”は、この空に繋がっていてはいけない」というようなことを言っており、有限・無限の矛盾を孕んだ彩名エンドの世界に対して、終ノ空はその矛盾が無い世界であることが逆説的に分かります。

 

音無彩名は何者か

最後まで答え無しですが、仮に終ノ空が実在するならば、かつて”終ノ空だったもの”ではないでしょうか。上記で述べたように、矛盾の無い完全な無限世界には”存在”することができません。人間も動物も物もなく、単に<である>ことしかできないのだと思います。そんなのクソつまらんしやめたるわと思い立った彩名は、有限という不完全を求めるようになり、その観念を共有できる人間を探していたのではないかと思います。

完全な世界を夢想するのは、この世界が不完全であることを実感している人間です。この世は嘘で満ち溢れた不完全な世界であり、人間は自ら虚構を纏いながらでないと生きていけない。ならば、元々生きることに意味などないのではないか。そんな誰に問うても”語り得ぬ”ことに目を向けた人間に対して、彩名は”終ノ空”という完全な世界の概念を植え付け、それを知ってなお”完全”に魅了されず、冷静に見つめて有限の”不完全”を選ぶ人間を待っていたのではないでしょうか。

ここに卓司と行人の違いがあります。卓司はイジメを受けていたこともあって、自らの生きる意味を悲観的に捉えていました。彩名との会話によって「”兆し”を得た完全な世界=終ノ空なのだ」と理解した卓司は、その”完全さ”に目が眩んで、自分の生の意味とは「この不完全な世界とはおさらばして完全な世界へ至ることだったのだ」と思い込みます。それまで生を悲観していた分、その思い込みは一層強いものだったでしょう。そのため、上述のような完全な世界が完全であるがゆえの欠陥を持っていることに気づきませんでした。あるいは、気づいていたかもしれませんが、嘘で満ちた不完全な世界よりはましだろうと考えていたのではないかと思います。

行人も同様に生の真の意味を考えていたので、”終ノ空”の概念を彩名から授かりました。しかし、卓司と異なるのは、純粋に生きる意味を問うていたということです。悲観から入った卓司は、生きる意味という誰も”語り得ぬ”ことを堂々と皆に問いかけましたが、行人はそれに対して”沈黙し”、それから一歩先へ進んで「生きる意味など誰も分からないが、間違いなく生は祝福されてもいる」という考えに辿り着きます。生まれた時点で死は決まっており、あまつさえ嘘を寄る辺に生きていかなければならないので『生は呪い』だと言えるでしょう。しかし、確かに行人の言う通り、なぜか生まれることは祝福されます。このことから、行人は『人間には何らかの生への意思』があり、生は呪いであると同時に祝福されてもいるという結論に至ります。その上、彼は完全な世界が完全であるがゆえの欠陥に気づいていたので、そんな欠陥のある世界<である>よりは、不完全ではあるが祝福されている生(つまり死であり”有限”)の方が良いだろうと考えたのではないでしょうか。

行人は”終ノ空”に至ることなくその考えに到達することができたので、彩名は彼を尊敬していたのだと思います。

 

その他雑感

  • 狂った作品なのは確かですが、テーマはありふれたものであり、狂っていて難解であるがゆえに、ありきたりな台詞が胸に残ります。
  • テキストが短くて読みやすいです。速い人だと4~5時間でクリアできますが(つまり”有限”)、それだとよく分からないと思うので(つまり解釈は”無限”)、何度もやり直すことになると思います(つまり無限の”始まり”=”有限の中の無限”)。
  • バックログ無しってマ?

 

なかなか時間をかけて書き上げましたが、自分が何を書いていたのかよく分からなくなってきた......まあ、なんかとりあえず達成感はある。

 

 

 

【感想】ISLAND(PS Vita版)

 

涼しげなパケだったので買いました。

 

ISLAND - PSVita

原子が完全に静止するってことは、時空震の影響も受けないってことだから、現在から消えて過去に突き進むの。

*作中より引用。

 

概要

グリザイアシリーズで有名なフロントウイングから発売されたSFおとぎ話。タイムトラベルを扱っており、道中では割と複雑なパラドックスが展開されます。思った以上に壮大なオチで、ここまで広げて終わる作品はあまり見たことがありません。実はアニメやってたらしいですね。知ってました?僕は知らずの民でした。

 

シナリオ

本作は3部構成で、夏編・冬編・真夏編の順にルートが開いていきます。

 

夏編

『浦島』を舞台とし、その地に伝わるおとぎ話に登場する”刹那”・”凛音”・”夏蓮”・”紗羅”と同じ名前を持つ人間が一堂に会し、なんか意味ありげな伏線が次々と張られていくパート。サブヒロインへの分岐があるのはこのパートのみです。

 

浦島御三家のひとつ『御原家』の長女。”煤紋病”への恐怖心から日中はあまり外を出歩かない、半引きこもりの女の子です。このゲームは実質彼女一本道という感じなので、必然伏線が多くなり複雑なルートになっています。特に終盤あたりのタイムパズルは、紙に書き起こさないと理解できませんでした。CVは田村ゆかり

 

  • 枢都 夏蓮(くるつ かれん)

浦島御三家のひとつ『枢都家』の長女。古いしきたりに囚われた島から出て、本土で暮らすことを夢見ている女の子です。彼女のルートが一番ノーマルで分かりやすいですが、本筋とはあまり関係がありません。他人に頼ることなく、自らの意思で進むべき道を決めていく、夏蓮の成長が描かれた話でした。ツンデレ気質なのが良いね。CVは阿澄佳奈

 

  • 伽藍堂 紗羅(がらんどう さら)

浦島御三家のひとつ『伽藍堂家』の長女。オカルト好きな女の子で、彼女の発言は少なからず物語の真実を捉えています。5年前に火事で両親を失っており、当時の真相を暴くためにタイムパズルが発生しますが、結局はまあそういうことね、というオチ。好物はトウモロコシ。CVは村川梨衣

 

冬編

なんやかんやで凛音を助けるために主人公・刹那は冷凍睡眠装置に入り、舞台は2万年後。西暦22016年の世界は辺り一面雪に覆われ、人類は巨大階層式シェルター『アイランド』で暮らしています。夏編のヒロインと同名のリンネ・サラ・カレンが登場します。ルート分岐は無し、リンネちゃんの一本道です。

刹那は記憶を失くしていますが、誰かを助けるためにこの時代に来たことだけは覚えていて、世界を救うと豪語するリンネちゃんと共にタイムマシンを製作することになります。ありがちな政治的ごたつきがあってアイランドは衰退していきますが、タイムマシンは完成。刹那は時間を跳躍します。

 

真夏編

というわけで舞台は再び浦島へ。二度と凛音を失うことのないよう、刹那は奔走します。おとぎ話の意味、3部の時系列など真相が明らかになり、細かい伏線も回収されていきます。いったい彼はどれほど長い時間を渡り歩いてきたのか、凛音(リンネ)はいつになったら輪廻の鎖から解放されるのか。壮大な運命と時の流れが感じられるラストです。

 

率直に綺麗な絵という感じ。立ち絵はもちろん可愛いですが、背景やイベントCGが鮮明で美しい。島の夏の風景は疲れを癒してくれます。

 

音楽

まあまあ良かったです。夜のシーンが多いからかゆったりとして落ち着いた曲が多いです。お気に入りBGMはホーム画面で流れる『繰り返す季節の中で』と『明日があるとしても』。

 

雑感

  • 最後は凛音かリンネを選ぶことになりますが、刹那視点だとどちらも同じだと思います。凛音を選んだとしても生まれ変わりだと気づかず、リンネだと思い込んでしまっているので。でもそれがリンネの望んだ結末であり、連鎖から解放されたという意味でハッピーエンドなんですねきっと。
  • やはり時間は過去から未来への一方通行で、逆向きに流れたりはしないんだな......と一瞬落ち込みましたが、最後の最後で時間遡行型タイムマシンの可能性が示唆されてテンション上がりました。ここが本作の良いところ。
  • 氷河期以前に超文明が栄えていたとしたらドッキドキーのワックワクーですね。オカルトに目覚めてしまいそうだ......
  • これだけは言わせてもらってええか。リンネちゃん可愛すぎなんよ。ランランララン~♪アイランジャ~♪ 戦え!アイを守るため~♪ってね。どうもすみません。
  • 声優が豪華で良い。

 

タイムトラベルは可能だと信じているよ。 

以上。

 

 

【感想】SF小説 その④

 

虚構に生きるオタク。

 

零式(海猫沢めろん

零式 (ハヤカワ文庫JA)

古本屋で見かけて雑に買って雑に読もうと思っていたんですが、期待以上に面白くて引き込まれてしまった作品。ジャンルとしては歴史改変ディストピアもの、みたいな感じでしょうか。疾走感のある文体、凄絶なアクションシーン、グロテスクな描写、そういったラノベ的表現と、時々挟まれる文学的・哲学的表現が奇妙に調和している印象を受けました。内面を垂れ流しているあたり明らかに思春期向けなんですが、僕には効いた。

 

氷(アンナ・カヴァン

氷 (ちくま文庫)

凍てついた氷の世界で、一人の少女を追い続ける男の話。なんだかよく分からないけど静謐で美しいものを見た気分になれます。現実と夢が入り混じった迷宮的描写、実在と幻影の狭間で揺れ動く”少女”、迫りくる冷酷な”氷”のビジョンにより、孤高の夢幻世界が完成しています。序盤からそんな具合なのでちょっと苦しいですが、中盤以降は線が整っていく感じがしました。カバーがかっこいい。

 

シリウスオラフ・ステープルドン

シリウス (ハヤカワ文庫 SF 191)

人間と同等、あるいはそれ以上の知能を備えた「シリウス」という犬の一生を綴った物語。理性と野性の葛藤を通して語られるのは、”人間”に対する徹底した思弁と、不条理に満ちた世界における霊的結合の刹那の輝きです。全編にわたって悲観的な傾向がありますが、シリウス、お前の気持ちは分かるぞ。人間も世の中もむつかしいね。

 

夏への扉(ロバート・A・ハインライン

夏への扉

これを読まずしてSF好きを公言していたとは......片腹痛いですね。タイムトラベルを扱った古典SFとしてかなり有名で、初出は1956年。しかし古臭さは感じられず、小難しい物理理論や複雑なタイムパラドックスも出てこないので、非常に読みやすく万人にオススメできる作品だと思います。作中では西暦2000年を未来として描いていますが、2020年となった現在、冷凍睡眠装置も、火星への定期航路も、滑走道路も、タイムマシンも存在しないという虚しさ。「こうはならんかったな......」と呟きながら読みました。

 

確率人間(ロバート・シルヴァーバーグ

確率人間 サンリオSF文庫(ロバート・シルバーバーグ 田村源二(訳 ...

未来透視を題材にした作品。序盤はただの政治ドラマですが、途中からSFっぽさが加わっていきます。二時間線理論という逆時間の並行宇宙を仮定した理論で、未来透視の原理を説明しています。未来が見えても周囲の人々が信じてくれなければ現在は変えられず、そうした透視能力を持つ人間の孤独と運命論的諦念が描かれた物語でした。一番の魅力は訳の上手さで、昔のSFにありがちな突然の夢幻パートも淀みなく読めました。

 

ペース上げていきたい。

以上。